第6話  源氏物語と天皇(2)

 正解は「天皇」または「陛下」です。「天皇陛下」とくっつけてもまあ間違いではありません。つまり在位中に呼ばれる名前は本来は「無い」のです。ですから他の天皇と区別する時は、「今上天皇」か、本名(これは諱=いみなと言って、普段は使うのを避けます)から「明仁天皇」とすることが多いのです。「大正」や「昭和」は諡号、つまりなくなってから贈られる名前です。そしてこの漢字二字の諡号は、奈良時代後半に定められたものと考えられていますが、平安時代になると極めて少なくなって、九世紀後半の光孝天皇を最後に中絶し、復活したのは明治天皇の曽祖父にあたる光格天皇の時、幕末からなのです。

 ではその間の天皇の呼び名はどうなっていたのでしょう。まずこの間の天皇は、即位中に亡くなることはほとんどなく、適当な時期に退位して上皇になり、後に出家し、法皇になる人も多かったのです。そして、在位中は「みかど」とか「当今(とうぎん)」「お内裏様」とか呼ばれ、退位の後は、「院」と呼ばれます。だから「院」が複数人いたことも少なくありませんので「一の院」「二の院」とか、住む所によって呼び分けられます。例えば、京の西北の嵯峨に別荘を構えたら「嵯峨院」、南の鳥羽なら「鳥羽院」という具合です。また、墓所の場所で呼ばれることもあります。「醍醐院」がその代表でしょう。そして、京の中に邸宅を構える上皇もその名で呼ばれることになります。「二条院」とか「三条院」とかがそれです。

 つまり私たちが天皇の名だと思っている「嵯峨」「村上」「醍醐」「一条」「白河」など、地名と共通する名は、本来は、全て「上皇の通称」に過ぎず、正式に奉られた名前ではなかったのです。なお、ある地名にゆかり上皇が二人いる場合、後の人を「後〇〇」と呼びます。一条と後一条、白河と後白河などがそれです。ですから、諡号を送られていない天皇は、「〇〇院」と書かれるのです。こうした慣習から、院号と天皇号は混乱して使われるようになり、近代以降はみんな天皇号として扱われるようになりました。

 では「院」とは何か、本来は天皇の別邸のことです。この別邸の中には、天皇家で代々相続されるものもあります。そうした院を特に「後院」といいます。ほとんどの天皇は退位後にそういう邸宅に移り、適当な時期に、いわば自立していくことになります。
 そして朱雀院と冷泉院は、代表的な後院なのです。

 ここまで書いてくるとお気づきの方も多いと思います、紫式部の時代には、どんな天皇でも引退後に朱雀院や冷泉院に住む可能性があったのです。そしてそこに住んでいた時には、誰もが「朱雀院のみかど」「冷泉院のみかど」と呼ばれていた可能性が高いのです。そして実在の朱雀・冷泉天皇は、身体が弱かったため、後院に住む期間が長かったから、後世にその名が定着し、それに天皇号が付けられるようになったにすぎないと思われます。
 つまり、朱雀「天皇」も冷泉「天皇」も実在せず、いたのは「朱雀院」と「冷泉院」と「後に」呼ばれた「先のみかど」なのです。
 そして繰り返しますが、『源氏物語』では、「朱雀院」も「冷泉院」も、ずっと朱雀院や冷泉院に住んでいたわけではありません。たまたま出てきた院名が、当時としては最も「あたりさわりのない」二つの後院だったがために、後の世の人が紛らわしくしてしまったというのが真相なのです。
 このように、平安時代の人は、「朱雀院に住む元のみかど」「冷泉院に住む元のみかど」から実在の「朱雀天皇」「冷泉天皇」を連想することはほとんど無かったと考えられます。つまり、当時の人にとっては、「朱雀院」も「冷泉院」も、いわば「あるお屋敷」に少しリアリティーを持たせる程度、きわめて普通名詞に近い言葉でしかなかったと見ておいていいと思います。むずかしく考えることは何もないのです。

 私が「十条帝」「玲瓏帝」は東映さんの気の使いすぎ、と言ったのは、こういう訳です。マンガの大和和紀「あさきゆめみし」でも、それを舞台化した宝塚歌劇でも、朱雀院・冷泉院はこだわりなく使っているのですから、あまり気にしなくてもいいのに、と思います。
 なお、二字の諡号(漢風諡号)については私の説ですが、朱雀院・冷泉院が普通名詞に近い使われ方だというのは私の新説ではありません。大部分はある論文から引用したものなのですが、その出典を忘れてしまいました。ご存じの方があればご教示下さい。

(榎村寛之)

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