第21話  再現・曲水の宴のテンマツ

 と、いうわけで、斎宮跡歴史ロマン広場は、3月3日につつがなく開園し、曲水の宴も開催され、好評を博しました…と言いたいところなのですが、大変だったんですから、これが。
 で、今日はその裏話。
 結局曲水の宴は広場の中ではできなかったんです!!!すべては神風が悪いっ。(斎宮百話Cをご参照下さい)
 このイベントをやろうと決まった時、一番困ったのは、曲水の宴は全国でやっていて、いまさら珍しくも何ともない、ということでした。何しろインターネットで検索するだけで、20件近く開催案内が引っかかってくるのですから。
  これじゃ斎宮で開いてもなんだかつまらない…。
  ところがいろいろ調べているうちに、ふしぎなことがわかってきたのです。
  今、私たちが普通にイメージする曲水の宴というのは、およそこんなものでしょう。
  …庭を流れる曲がりくねった流水の左右に貴族の男女が座っていて、おもむろに盃を乗せた鳥が流れてくると、前を通りすぎるまでに和歌を読んで、盃を取って飲む…
  ところがこういう次第を書いた平安時代の儀式書が全く見つからないのです。そもそも、曲水の宴が開かれた記録がほとんどないのです。これはいったい!
 こうした宴会については、日本の饗宴、つまりパーティーの歴史を通観した倉林正次『饗宴の研究』という分厚―い研究書があります。これによると、曲水宴とは、「中国から渡来した春の宴会儀礼で、曲水の盃を流して漢詩を競うもので、奈良時代後半に盛んに行われたが、平安時代初期、平城天皇の時代に、父の桓武天皇と母の藤原乙牟漏の命日が三月だという理由で停止され、その後はほとんど行われなかった」ですって!
 つまり今行われている「王朝ロマン・曲水の宴」とはずいぶん感じの違うものだったのです。
 さて、平安時代に行われ、詳しい儀式の次第が残っている曲水の宴は、天皇主催のものが一例、公卿主催が『御堂関白記』に見られる寛弘四年(1007=藤原道長主催)と『中右記』に記された寛治五年(1091=藤原師通主催)の二例に過ぎません。そして『三長記』という鎌倉時代の日記には、元久三年(1206)年に藤原良経の、詳細の検討しながらもついに実施できなかった曲水の宴の記録が見られます。こうした史料をもとに、『中右記』と『三長記』を踏まえて、極力史実に近い曲水の宴を企画しました。主な特徴は、作るのは漢詩、前を通るまでに作るというルールはなし、座席も平安時代風に復元する、などです。そして参加の皆様を一般から募り、2月24日には追いこみ工事中の歴史ロマン広場で顔合わせも行い、盃を乗せる鳥形の船「羽觴」も復元し、3月1日と、2日の午前中に川流しのリハーサルを繰り返しました。ところがここで困ったのは、BGMをお願いしたお琴の先生。不祥私、お琴なんぞというもの、弾いたことがありません。お琴の置き方は何に注意すればいいの、持ち運びはどうすればいいの、なんてさっぱりわかりません。どーしよう、となった時、お手伝いに来ていた専修大学研修生の井上沙織さんが、「私お琴弾けます」。あっと驚く救いの神、よーし、お琴の先生は君に任せたっ。かくて、準備万端整ったのでした。
  ところが、3月2日の午後から文字通り風向きが変わりはじめたのです。夕方には北西の季節風が吹き荒び、式典現場の幕も巻いておかないと飛んでいきそうな具合になってきたのです。
  一夜空けて、式典当日もこの風は続きました。そして、参加者や裏方の安全と健康を考慮した結果…、『9時15分、テープカットをはじめとしたすべての式典をいつきのみや歴史体験館内で行うことに決定。』
 おりしもこちらは曲水の現場で最終確認と調度品の並べの準備中、開園式典は10時から、曲水の宴は11時から、もう貴族役の人たちは着替えに入っている、BGMのお琴の先生も待機している。ここから11時までは…何をしてたか覚えていない、式典がどう進んでいたかなんて全く知らない(^^;)。
 かくして、11時より、再現・曲水の宴、室内バージョンが麗々しくとり行われ、従者に扮した三重県埋蔵文化財センター技師水谷豊氏が「水」の役をつとめて羽觴を流し(つまり持って歩いたのです)、同じく新名強氏が盃を参加者に配ったのでした。「お笑い曲水の宴」にならなかったのは、ひとえに水谷・新名両氏の真摯な動きと、参加者の皆様の雅びな動きと、お琴のBGMによるもので、司会者はとりあえずの場つなぎに必死。雨天バージョンを考えておいて本当によかった、という所で、ようやく開園いたしました歴史ロマン広場、博物館・体験館ともども、どうぞご贔屓にお願いいたします。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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