第17話  お正月に寄せて 斎宮女御と百人一首について考える

 さて、新年あけましておめでとうございます(はちょっと遅いか)。本年も斎宮百話をよろしくお願いいたします。 
 正月いえば百人一首、近頃はそういうわけでもないか?でもカルタ選手権なんて毎年ニュースでやってるし、というわけで、今回は季節ネタです。
 この百人一首には本館はちょっとウラミがあります。というのも…百人一首に入っている斎宮関係者が一人もいないっ!
 歌人というのは、歴史上の人物でもそう有名じゃない。実際には、かろうじてわかるのは、「百人一首のあの歌を詠んだ人」なんですね。じゃ斎王や斎宮寮の人たちにろくな歌人がいなかったのか?とんでもない。斎王の中には三十六歌仙にも入っている「斎宮女御」がいるのです。
 百人一首はもともと藤原定家が嵯峨の小倉山荘に貼ったという「百人色紙」が原型とされています。 つまり、細かい背景は後にして、藤原定家の好みで選ばれたというわけ、だから、定家のセンスと斎宮女御のセンスが合わなかっただけ、と言ってしまえはそれまでなのですが、それではつまらないので、斎宮女御の名誉回復?のためにこんな話を。
 三十六歌仙の中で百人一首に入っていない人は、大中臣頼基、藤原公忠、源信明、平仲文、中務、藤原清正、源順、藤原元真、藤原高光、小大君で、徽子を入れて十一人、意外に多い。しかも信明以下八人は徽子と同世代を生きた人、この世代で採用されたのは壬生忠見、大中臣能宣、源重之、平兼盛、清原元輔くらいで、何と5勝9敗の不成績。万葉、古今世代は圧倒的に強かったのに、この世代が弱いから全体で25勝11敗に留まった、とも言えるのです。つまり、『拾遺集』あたりで活躍する歌人は定家の好みではなかったのかもしれないわけですね。
 ところが、斎宮女御は、同じ定家の編纂した『新古今和歌集』には十二首が採られています。これは第二十九位の成績で、女流歌人としては第七位、しかも百人一首に採られた同世代の歌人、平兼盛〜大中臣能宣の十人の中で彼女より多いのは、皮肉なことに生前は不遇に終わった歌人、曽禰好忠ただ一人なのです。彼女の世代の歌自体が定家の好みに合わなかったとしても、斎宮女御が百人一首に採られなかったのは、ほかにもわけがありそうに思えます。
 そこで考えてみたいのは、斎宮女御と並ぶ皇族歌人として知られた、大斎院選子や村上天皇、花山院などが入っていない、ということです。
 百人一首に入っている皇族歌人は、天智天皇、持統天皇、陽成院、光孝天皇、元良親王、三条院、崇徳院、式子内親王、後鳥羽院、順徳院です。この中には実に「わけあり」の天皇が多いのです。もともと百人一首の研究を見ていると、その成立については、当時隠岐と佐渡に流されていた後鳥羽院、順徳院の顕彰という意識がかなり強く見られていたらしいのですね。とすれば「人もをし人もうらめし味気なく世を思ふ故にもの思ふ身は」という第99番の後鳥羽院の歌と「ももしきや古き軒端のしのぶにもなお余りある昔なりけり」という第100番の順徳天皇の歌は、百人一首のテーマともかかわる選定と考えられます。つまり百人一首とは、後鳥羽天皇の慷慨と、順徳院の懐古で、承久の乱による両院の配流、つまり歴史的に言えば平安時代の終わりを慨嘆して締めくくる、ということになります。

 こう考えた時に、他の天皇はどうなるか。まず天智天皇、有名なことですが、「秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露に濡れつつ」は天智御製とは考えられていません。天智が採られたのは、平安時代の天皇のルーツが天智天皇に始まる、という考え方にもとづくものでしょう。そして持統天皇「春すぎて夏きにけらし白妙のころもほすてふ天の香具山」は、天武系の奈良時代の天皇と天智系血統をつなぐ存在となります。そして桓武を経て皇位継承は、兄弟と親子の継承を繰り返しつつ、基本的には直系でたどれるのですが、陽成「つくばねの峰より落つる男女の川恋ぞつもりて淵となりぬる」で一旦途切れてしまいます。彼は突然退位させられた天皇(内裏で殺人を犯したためといわれます)で、代わって即位するのが大叔父(祖父文徳天皇の弟)の光孝天皇なのですね。彼の歌が「君がため春の野に出でて若菜積むわが衣手に雪はふりつつ」。この歌を天智、持統の歌と比べてください。「わが衣手は露に濡れつつ」と「わが衣手に雪はふりつつ」は明らかに対応しています。さらに、「若菜積む」には持統の「衣干す」に通じる天皇の歌にしては庶民的なおおらかさがうかがえます。そして天智の「秋」、持統の「夏」に対して、光孝は「春」なのです。つまり、陽成によって「峰から落」ちた天皇家は、天智の再来とも言える光孝(ちなみにこの諡号は、桓武の父、光仁を思わせるものがあります)によって再び春が巡ってきたという意識があるのではないでしょうか。一方陽成の皇子元良親王は「わびぬればいまはたおなじ難波なるみをつくしても遭はんとぞ思ふ」と、「わびぬれ」た立場になってしまう。こうして天智系の皇統は、光孝系としてリスタートを切ったのですが、冷泉・円融の兄弟から二系統に分かれてしまいます。 しかし、この分裂は、冷泉系の禎子内親王を円融系の後朱雀天皇が娶り、生まれた後三条天皇が即位する、という、いわば円融系による冷泉系の吸収で完結します。そして吸収された冷泉系最後の天皇が禎子内親王の父、三条院で歌も「心にもあらで浮世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」という悲憤を込めたものになっています。こうして一本化された天皇家は何とか世代間で世代間継承を続けるのですが、それが途切れるのが保元の乱で流された崇徳院「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に遭はんとぞ思ふ」、四国に流された人の歌と思って読むと「瀬をはやみ」とか「岩にせかるる」とかは何とも思わせぶり、「われても末に遭」うという執念は、怨霊になったという伝説を思わせます。こうして後鳥羽(父)、順徳(子)の時代になるのです。ところがお気づきでしょうか、実は源平の合戦の頃の皇統分裂、つまり二条、六条、安徳といったところに対応する天皇がいないのですね。二条も高倉も歌人としては知られていないし、六条と安徳は子供なので、選ぶほどの人がいなかったのですね。そこで浮かんでくるのが、二条〜高倉の間の賀茂斎院で、定家がその家司として仕えていたともいう式子内親王「玉の緒絶えなば絶えね長らえは忍ぶることの弱りもぞする」、平氏全盛と没落の時代に耐え忍ぶ天皇家のイメージとは考えすぎでしょうか。
 このように、百人一首の皇族の歌は、すべて平安時代史のターニングポイントを表わしているように思え、それらは最終破局である後鳥羽・順徳の歌につながっていくという感じがするのです。
 これはあくまで天皇家関係の歌だけに限定した仮説で、ほかの歌人の歌がどうなるのかまでは考えていません。だから自分でも十分に信頼しているわけではないのですが、百人一首の天皇関係歌が歌で語る平安王朝史だとすると、斎宮女御や村上天皇らの歌が入らないのも理解できるのです。
 つまり、村上天皇の時代というのは、天暦の治といわれ、後世に「聖代」として理想化された時代なのです。そういった平穏な時代(現実には地方の争乱とかいろいろあったのですが)の皇族は百人一首には入らない、だから斎宮女御は百人一首の歌人にはなれなかった、と考えられるのです。

 さあどうだ!
 斎宮女御の名誉回復…われながら面白いけど、ちょっと強引かなぁ、やっぱり。

(学芸普及グループ 主査兼学芸員 榎村寛之)

ページのトップへ戻る