第11話  江戸時代の「斎宮」?

 このホームページには歴代斎王のリストがありますから、ご覧になった方も多いかと思いますが、斎王は十四世紀初頭で選ばれなくなっています。だから斎宮は南北朝以後には、影も形もなかったわけなのですが「斎宮」という名前が江戸時代には実はしばしば見ることができるのです。

 まず有名なところでは、孫福斎宮がいます。知らない?では福岡貢という名では?
あなたが歌舞伎ファンならお気づきではないですか。片岡仁左衛門の貢さん。中村勘九郎の貢さん。そう『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の主人公です。といってもわからねぇ、という人のために少しばかり。

 この芝居は寛政八年(1796)に、伊勢古市の廓で起こった殺人事件に取材した事件です。福岡貢(ふくおか・みつぎ)という主人公は元武士で、伊勢神宮の布教宣伝を行う御師の家の養子になっていたのですが、元の主家の重宝、青江下坂(刀の名前、名刀らしい)が紛失したので、その探索を引きうけました。で、いろいろあって結局、なじみの遊女、お紺のいる古市遊郭の油屋というお茶屋で、その刀を使って大量殺人を犯したのですが、斬った相手はみんな刀を盗んだ悪党だったというようなお話。史実は御師が馴染みの遊女に斬り付け、結局自害して果てたという単純なものなのですが、その御師の名が孫福斎宮(または「斎」一文字)です。この人は「そんぷくさいくう」ではなく、「まごふく・いつき」と読みまして、「孫福」という牲は伊勢ではたまにあるのです。そして「斎宮」を通り名にしていたわけですね。こうした律令国家の役所名を通り名にしているのは、例えば「中村主水(水の管理をする主水司から)」とか「古田織部(機織工房の織部司から」とか「大石主税(税の米を管理する主税寮から)」とかと同じことなのです。

 さて言うまでもなく、孫福斎宮さんは遊女と馴染むので当然、男です。この場合、もともと官職名の「斎宮頭(斎宮寮の長官)」か「斎宮助」を勝手に名乗る風潮があり、そこから官職を示す「かみ」や「すけ」が取れて「斎宮」になったと思われます。
 どうもあまりメジャーではないようですが、江戸時代には「斎宮」という名乗りがあったらしいことがこれからわかります。

 ところが、これとは別に「斎宮」がほかにもいるのです。しかも女の・・・。
 後陽成天皇(1571-1617)といえば秀吉・家康と同時代を生きた天皇で、能筆家ととしても知られていますが、この人の第五皇女に貞子内親王 (1607-1675)という人がいました。五番目の娘なので「女五宮」というのが通称だったのですが、当時の貴族や皇族の日記によると、この人は「斎宮」とも呼ばれていたのです。

 はて、江戸時代に斎宮が?しかし、この人は二条康道という貴族の正室でもあったのです。だから独身ではないし、京都にいたので、もちろん伊勢に行っていたわけではありません。まさか「いつきのみや」とは思えないわけですね????
 で、その答えは『系図纂要』の皇室系図にありました。この人について、「斎宮」に「いつみや」というふりがながあったのです。つまり「五宮」は「いつつめのみや」、略して「いつみや」で、音の似た「いつきのみや」、つまり「斎宮」と通称されていたと思われるのです。

 というわけで、「斎王」が江戸時代にいた、というショッキングな話は、真夏の夜の夢と消えそうです。でも時々史料の中に出てくるのですよね。「斎宮」という文字が。江戸時代の斎宮という名乗りの使われ方については、まだまだ問題がありそうです。

(榎村寛之)

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