第10話  斎藤さんのルーツを探ろう

 さて、前回は、斎藤さんの先祖、藤原叙用がいつの時代の斎宮頭かわからない、と書きましたが、わからないならそれなりに推測は可能なので、今回は史料に基く推測です。

 『尊卑分脈』によると、利仁の経歴は、就任年のわかる最後のものは延喜十五年(915)の鎮守府将軍で、他に就任の年がわからない官職として武蔵守が記されています。鎮守府将軍は従五位上、武蔵守も同じなので、まあそうは変わらない位でしょう。延喜十七・十八年の武蔵守は別人なのが確認されるのと、鎮守府将軍との併任から考えて、915年位に武蔵守だったと見られます。つまり利仁のピークはこのころ、というわけ。さて、系譜上、彼の長男は藤原有頼で、鎮守府将軍はこの人が相続したらしい。一方叙用は7番目の男子となっています。しかし有頼の母が丹波目伴統忠の娘なのに対して、母は輔世王の娘という皇族だから、本家はこの人が継いだらしい。輔世王というのは桓武天皇の孫で仲野親王(792−867)の次男、879年に死んでいます。で、仮に輔世王が仲野親王30才の子とすると、生年は822年、でその娘も30才の子とすると852年生まれ。915年には63才。夫の利仁が同い年とするとちょっと将軍をつとめるには年が行きすぎてますな、源頼義のように65才で鎮守府将軍になって前九年の役を戦った、なんて怪物さもいますが。まあ860年生とすると915年には55才、この位かなぁ、という所。で、その七男ということで、890〜900年頃の生と仮定したら、950年には50〜60才、斎宮頭が最も華々しい官職だったとしたら、だいたいこの頃かなぁ、という感じになります。

 で、その頃の斎王が伊勢にいた時期、つまり斎宮頭が置かれていた期間はといえば、醍醐朝の柔子が899−930年の長期在任で、次ぎが朱雀朝の雅子で933−935、次ぎが斎宮女御徽子で938−945、それから村上朝の悦子の949−954、楽子の957−967、この間で斎宮頭が明かなのは徽子の時代の源忠幹のみ。

 実は私は叙用の任官は悦子の時ではないかと思うのです。なぜかと言うと、叙用が武士だからなのです。

 斎宮頭というのは当然のことながら本来は文官です。例えば、忠幹は光孝天皇の曾孫にあたり、その子の為正は徽子の娘の規子内親王の時の斎宮頭を勤めていますが、為正の兄の為憲は『三宝絵詞』や『口遊』を著した人で、どうも学者や歌人として知られた一家のようです。ところが『今昔物語』の芋粥の話によると、利仁は北陸地方に勢力を張った武人で、叙用の子孫からその北陸の武士である斎藤党が出ているわけですから、彼もまた武士的な貴族だったと考えられます。

 そしてこういう人が斎宮頭に任命されるのは非常に例外的なので、それを記念して子孫が「斎藤」を名乗った、というのは考えすぎでしょうか。

 この時代、武士的な受領が下向する時には、従者として武士団を連れて行き、その地域の治安維持や税物徴収にあたらせるのが普通です。どうも叙用任命の背景には、そうした武力による秩序維持が期待されていたのではないか、と思うのです。つまり、叙用が任命された時期、斎宮を含む南勢地域では治安が乱れていたのではないか、ということです。

 しかし南伊勢地域の秩序の乱れなら、例えば神郡には検非違使もいるし、秩序維持にあたる人や組織はあるのですが、利仁流の武士団を導入する必要もないでしょう。そこで仮説に仮説を乗せる想定。伊勢と関東の海上交通による距離の近さを想定して、平将門の乱の戦後処理の一環としての、与党、残党蜂起に備えた措置、というのはどうでしょう。

 関東の騒動を伊勢で気にするというのは大げさにも思えますが、十世紀後半には、常陸平氏の子孫が伊勢平氏になり、北勢で内紛を起こしている記録がありますから、関東と伊勢はあながち無関係ともいえないのです。

 平将門が戦死したのは940年、斎宮女御徽子女王の在任期間中です。関東全域を巻き込んだ兵乱ですから、その後10年位は落ち着かなかったことは想像するに難くありません。一方、徽子が帰京する時に用物が全く足りなかったことは、父の重明親王が日記に記しています、斎宮もなかなか不如意になっていたらしい。こうした事態を克服し、関東の治安の乱れが飛び火しないように、武力を持った斎宮頭が任命された、ということは考えられますまいか。

 というわけで、藤原叙用は、珍しい武人系の斎宮頭として、悦子女王の時に勤めていたというのが結論です。
 あんまり信用しないように(^ ^;)

(榎村寛之)

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