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斎宮歴史博物館 > 利用情報 > 史跡見学・観光ガイド > Web版斎宮今昔(史跡南東部)

Web版斎宮今昔

国史跡斎宮跡(南東部)

史跡南東部航空写真

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3 八脚門(はっきゃくもん)

八脚門方格地割に伴うものとしては、発掘調査で見つかっている唯一の門跡です。とても立派な門で、屋根を支える柱が前後に四本ずつ立てられていることが名前の由来です。この門の発見により、方格地割が東西7列あることがわかりました。
(写真:人の立っているところが柱の跡です)

4 牛葉東地区の大型柵列(うしばひがしちくのおおがたさくれつ)

牛葉東地区の大型柵列現在の竹神社北側の発掘調査では、大型の柵列が発見されました。この柵列は、竹神社の境内を取り囲むように延びていて、斎宮の中心部「内院」の区画の一つを囲っていたと考えられています。
(人の立っているところが柱の跡です)

 5 斎宮で最大の掘立柱建物(さいくうでさいだいのほったてばしらたてもの)

斎宮で最大の掘立柱建物竹神社の東側の区画も斎王の御殿のあった「内院」の一画と考えられています。ここで見つかった奈良時代後期の掘立柱建物は、斎宮跡で最大の建物でした。規模は東西17.7メートル、南北10.8メートルで、南北にそれぞれ庇を持つ、とても立派な建物です。斎王に仕える女官たち詰所(台盤所[だいばんどころ])と推定されています。

(写真:人が立っているところが柱の跡です)

7 竹神社(たけじんじゃ)

竹神社現在の竹神社の境内は、明治44年に旧竹神社(博物館南側の森の中にある)が合祀されるまで、「野々宮(ののみや)」と呼ばれていました。また、斎宮城があったという伝承も残されていますが定かではありません。境内の北側や東側の発掘調査で、ここを取り囲む大型の柵列(④参照)が見つかっていますので、斎宮の中でも特別重要な場所である内院の一画だったと考えられています。

 8 土器溜まり(どきだまり)

土器溜まり斎宮の中心部である内院と呼ばれる区画では、建物の隅にあたるような場所から土器を大量に棄てた穴や溝がしばしば発見されます。出土するものは、その大半が土師器(はじき)の杯(つき)・皿で、儀式や饗宴(きょうえん)に使われたと考えられています。内院地区で出土する土器の90%以上が土師器で、この傾向は平安宮の内裏などとも共通します。

9 エンマ川・絵馬殿跡

エンマ川と絵馬殿跡室町時代に作られた、斎宮に関係した能に「絵馬」という演目があります。この能は、大晦日に、斎宮のはずれにある絵馬堂の絵馬を掛け替えるという興味深い慣習にもとづくものです。エンマ川の名は、その絵馬堂の側を流れている川が、絵馬川と呼ばれ、次第にエンマ川に訛(なま)ったものと考えられています。また中世の旅人の日記には、「斎宮絵馬辻」や「斎宮のつし(辻)」といった文字が見えます。エンマ川と平行して走る道路(方格地割の東側を南北にのびる道路/写真)と旧参宮街道との交差点がこの辻にあたります。かつて、斎王は斎宮の東の端で禊をしてから伊勢神宮に参宮することになっていましたから、辻や絵馬堂は、斎宮が廃絶した後も特殊な空間と考えられていたのかも知れません。

10 六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)

六地蔵石幢明治時代の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)は斎宮にも影響を及ぼしました。かつてこの地は伊勢神宮の「神領」であったため、ほとんどの寺院は廃せられ、斎宮の東部(中町)にあった笛川地蔵院も廃寺となりました。当時を偲ぶものとしては、わずかに六地蔵石幢が残るのみですが、これは六角形に削られた龕部(がんぶ)に六地蔵を刻む優品で、室町時代後期の特徴をよく残しています。永正10年(1513)の銘があります。

 12  伊勢街道(いせかいどう)

中世のころ海側を通っていた参宮街道は、近世(江戸時代)になり松坂に城が築かれると、松坂城の近くを通るようにそのルートが変わります。この新旧二つの時代の街道が合流するのがちょうど斎宮の辺りでした。この地は、斎宮が廃絶した後も、交通の要衝として栄えていたようです。今ではめっきり減ってしまいましたが、伊勢地方の特色といわれる「妻入(つまい)り」(街道側に建物の妻側を面する家の建て方)や連子格子(れんじこうし)をもった家々は、伊勢参宮で賑わった往時の様子をしのばせてくれます。また、擬革紙(ぎかくし)で作った煙草(たばこ)入れは、現在の竹川(博物館南)辺りで売られ、名物になっていたそうです。
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