斎宮跡の発見から国史跡指定まで(昭和45年度から53年度まで)
斎宮跡の発掘調査の始まりは、高度経済成長期の最中、ちょうど大阪万博が開催された昭和45年(1970年)にさかのぼります。当時、現在の斎宮歴史博物館の南側周辺(古里遺跡)で、民間会社による大型宅地造成計画が持ち上がりました。そこで明和町教育委員会が調査主体となって試掘調査を実施したところ、各試掘グリッド(溝)で奈良時代や中世の遺構・遺物が確認されました。そのため、翌年には、三重県教育委員会が調査主体となり、古里遺跡の面的な事前調査が実施されました。その結果、数多くの掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)をはじめ、井戸、土坑、並走する奈良時代と鎌倉時代の大溝のほか、遺物では蹄脚硯(ていきゃくけん)や大型朱彩土馬(おおがたしゅさいどば)などが発見されました。古里遺跡が単なる中世村落遺跡ではなく、にわかに斎宮との関連が注目されるに至ったのです。古里遺跡の調査を進めるとともに、トレンチ調査による斎宮跡範囲確認調査も昭和50年(1975年)まで実施されました。調査は、古里遺跡5地区で12,650平方メートル、範囲確認調査は総延長3,200メートル、調査面積約11,000平方メートルに及びました。
こうした範囲確認調査の結果、各所から大型掘立柱建物や緑釉陶器(りょくゆうとうき)が見つかり、斎宮跡が古里遺跡も含む想像を超える広大なものであったことが次第に明らかとなりました。およそ東西2キロメートル、南北700メートルに及ぶ137ヘクタールの範囲に遺跡が所在するものと認識されるに至ったのです。
このように斎宮跡の実態が明らかとなり、その重要性が高まるにつれ、保存をめぐる動きも活発化しました。当初、古里遺跡を守る運動でしたが、発掘現地説明会や講演会などを開催する中で、やがて斎宮跡全域の保存に向けられていくことになります。
この保存活動は、昭和54年(1979年)3月、斎宮跡の国史跡指定というかたちで結実しました。それは、多くの人々の熱意と県・国等への働きかけ、さらに地元住民の理解によってなし得たものでした。
古里B調査
範囲確認調査