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斎宮関連用語集

斎宮(さいくう)

本来は古代中国で、皇帝が祭祀を行う前に清浄を保つために籠もる所のことをいい、現在の北京の故宮(清の紫禁城)にも同名の施設がある。『日本書紀』では、伊勢神宮や、天皇が籠もる宮の意味で使われており、「いわいのみや」と読まれたようで、斎王関係では、大来皇女が「泊瀬斎宮」に入ったという記事がある。伊勢斎王の宮殿の意味に限定されて使われるのは八世紀以降のようである。読みは「さいくう」か「さいぐう」かは定かではない。

斎王(さいおう)

飛鳥時代から南北朝時代にかけての約660年間にわたり、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女のこと。都から遠く離れた伊勢斎宮に住まい、年に3回神宮に参拝することが最も大切な務めとされていた。

斎宮寮(さいくうりょう)

斎王が伊勢在任中おかれた令外の官。『続日本紀』の大宝元年(701年)には「斎宮司」が「寮」に準じると見える。また、大宝2年(702年)には「斎宮頭」補任のことが、養老2年(718年)には斎宮寮の公文書にはじめて公印を使用したことが見え、律令体制が確立された時期には設置されていたと考えられる。本局の下に、司と呼ばれる下部組織が13あり、『延喜式』によれば、職員数は総計510人を数え、独自の財政基盤を持つ、地方に存在する官司としては、大宰府と並ぶ大官司である。

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卜定(ぼくじょう)

斎王を占いにより選ぶこと。斎王は、天皇の即位後、未婚の内親王(いなければ女王)から選ばれ、神祇官によって、その合否を卜い定められた。その卜いは亀卜と呼ばれ、亀の甲羅を焼き、その割れ具合によって判断したとされる。斎王卜定の初見は、天武2年(673)年4月己巳、大来皇女の卜定。なお、その儀式次第は『北山抄』『西宮記』に詳しいが、これらの儀式書では斎王決定後に斎王家で執り行われる神事なども卜定として扱っている。

初斎院(しょさいいん)

宮中に設けられた斎王の潔斎施設。卜定後まもなく入る。その約一年後に野宮に移った。賀茂斎院にも同様の施設はある。

野宮(ののみや)

9世紀、斎王が伊勢に下る前に一年ほど暮らす仮の宮をいう。8世紀以来、伊勢に下る前に斎王は隔離されていましたが、その宮が「野宮」と呼ばれるようになったのは、場所が嵯峨野に定着してきた9世紀後半のことのようである。黒木の謡曲現在、その遺跡は確認されていないが、野宮神社、斎宮神社など数カ所の神社が伝承地として知られていて、野宮神社周辺では10月に斎王行列も出る。

発遣の儀(はっけんのぎ)

斎王が野宮での潔斎生活を終え、都を出発する時に宮中で行われた儀式。天皇は、この儀式の中で斎王に別れの御櫛を授けた。

別れの御櫛(わかれのおぐし)

"斎王は都から伊勢に赴任するにあたり、大極殿にて出立の儀式「発遣の儀」に臨んだ。
天皇は大極殿中央の御座所から平座に降り、参入してきた斎王を御前に呼び寄せて、手ずから斎王の額髪に黄楊の櫛を挿す。これが「別れのお櫛」と呼ばれるもので、この時「都のかたにおもむきたもうな」と別れのことばを告げる。この時斎王は振り返ってはならない決まりだったようである。"

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群行(ぐんこう)

斎王が都から伊勢斎宮へと向かう行事。平安期の例でいうと、野宮を出た斎王は、御禊後、大極殿で発遣の儀を行い、5泊6日の旅程で伊勢へと向かう。神宮の神嘗祭に合わせた日程のため、9月に行われた。群行は数百人規模の行列で、長奉送使が総括し、路次の近江国・伊勢国が頓宮をはじめとする受け入れを担当した。群行路は、遷都、東海道の付け替えなどで時代で異なるが、平安期は勢多・甲賀・垂水・鈴鹿・一志を通るルートをとった。

頓宮(とんぐう)

天皇の行幸や斎王群行の際に、その途次に設けられた急ごしらえの仮の宮。

六処堺川(ろくしょのさかいのかわ)

『延喜式』によると、斎王は群行の際、山城、近江勢多川、甲賀川、伊勢鈴鹿川、下樋小川、多気川の6か所の川で禊を行うとされている。山城での禊の場はよくわかっていないが、東海道が白川を渡る所だとする史料(『西宮記』『春記』など)があり、勢多川は勢多橋(今の唐橋あたり)で、勢多頓宮の直前、甲賀川(野洲川)は東海道が野洲川を渡るあたりで、甲賀頓宮の直前、鈴鹿川は関川で鈴鹿頓宮の直前、下樋小川は金剛川ないし真盛川、多気川は現在の祓川と考えられている。

長奉送使(ちょうぶそうし)

律令制度下において斎王が都から斎宮へ下る際に、その群行を指揮し、送り届ける役目を担った人物。参議もしくは中納言と弁、史、六位以下で中務丞を勤める者によって構成されていたとみられる。斎王を送り届けるとともに、都に帰り、その任務の完了報告を行う役目であった。「監送使」ともいう。

監送使(げんそうし)

長奉送使に同じ。

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葱華輦(そうかれん)

人力によって運行する輦輿という乗物の一種で、天皇が神事や臨時の行幸に用いる輿で、天皇以外では、東宮や皇后、斎王も乗用が許されていた。屋上の葱坊主方形の吉祥飾りから葱華輦と呼ばれる。

退下(たいげ)

斎王が任を退くこと。退出や下座ともいう。天皇の譲位または崩御、斎王の親族の喪があると、斎王は任を解かれる。都から天皇譲位等の報が知らされると、斎王は本座から退き、別の建物に座を移した。その建物は、斎宮頭の宿館や御匣殿などである。なお、退下は退任の意であり、都に戻る行事である帰京とは区別すべきものである。

帰京(ききょう)

斎王退下の宣旨後、都へ帰ること。

離宮院(りきゅういん)

度会郡にあった斎宮の離宮のこと。本来は斎王が伊勢神宮に参詣する際に宿泊場所として利用した施設であるが、神宮の事務を司る太神宮司や、神宮への天皇の使が利用する勅使房なども同じ所に置かれていた。斎宮と内宮のほぼ中間に立地し、天長元年(824年)には斎宮本体がここに移され、承和6年(839年)に火災により多気郡に戻るまで、ここに斎宮があった。現在のJR宮川駅南側一帯がその遺跡で、八脚門跡が確認されている。

三節祭(さんせつさい)

伊勢神宮において行われる6月の月次祭、9月の神嘗祭、12月の月次祭のこと。神宮の年中行事で最も重要な祭礼とされ、神嘗祭は、初穂を神に捧げる意味を持っている。

月次祭(つきなみさい)

季夏(6月)・季冬(12月)にとり行われた国家の大事の祭で、祈年祭、新嘗祭とあわせて四箇祭とされ、祭日は宮中が11日、神宮は外宮16日、内宮17日、斎宮18日となっている。また、伊勢神宮では月次祭と神嘗祭を三時の祭とし、斎王は三時の祭のみ直接神宮へ参入し、神事に奉仕することになっていた。

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神嘗祭(かんなめさい)

9月に伊勢神宮で行われる新穀を神に奉納し、豊穣を感謝する祭。この祭事は、在地禰宜を中心として執行される一日目の由貴大御饌神事と大宮司を中心として行われる二日目の奉幣祭で構成される。『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』などによると、斎王は、二日目の奉幣祭に、外宮を9月16日、内宮を17日の日程で参加した。祭事のなかで、宮司らによる祝詞奉読、幣帛奉納の前に、斎王は物忌を介して太玉串を瑞垣門前に立てていた。

斎宮十三司(さいくうじゅうにし)

斎王に関する役所・斎宮寮に附属する機関の官。主神司を加えて十三司ということもあるが、主神司は本来別格(延暦19年(800年)以降、神祇官の所管)で、補任の際も寮官より上位に扱われた。「神亀五年勅」によれば、舎人司(とねりのつかさ)・蔵部司(くらのつかさ)・膳部司(かしわでのつかさ)・炊部司(かしきのつかさ)・酒部司(さけべのつかさ)・水部司(もひとりのつかさ)・采部司(うねめのつかさ)・殿部司(とのもりのつかさ)・薬部司(くすりのつかさ)・掃部司(かにもりのつかさ)の11の役所があり、その後拡大され、門部司(かどべのつかさ)・馬部司(うまべのつかさ)の二司が追加された。

斎宮頭(さいくうのかみ)

斎宮寮の長官で、従五位の位階を持つと定められていた。斎宮の事務を預かる最高責任者であり、平安時代初期には、伊勢国の介(次官)を兼任する場合もあり、斎宮が神郡の雑務を行うとされていた時期などには、まさに南伊勢地域の国守のような役割を果たしていたと考えられる。国司などと同じく、定期的な人事異動で交替したものと思われるが、その時の斎王と血縁がある者が多かったと指摘されている。

命婦(みょうぶ)

"一般には従五位下以上の位階の後宮女官のこと。斎宮においては、斎王の秘書的な役割を果たし、他の女官たちの管理を担っていたと考えられている。"

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尾野湊(おののみなと)

斎王が直接神宮へ参入する三時の祭りのうち神嘗祭前月の8月晦日や、新嘗祭の前月の10月晦日に斎王が禊を行う場所。10世紀後半の円融朝に、娘の規子内親王に伴って伊勢に下った徽子女王(斎宮女御)が「むすめの斎王にぐしてくだり侍りておほよどのうらにみそぎし侍るとて」と、「おほよどの浦にたつなみかえらずば松のかはらぬ色をみましや」と詠んだ歌から大淀の浦とみられている。

禊(みそぎ)

身に付いたケガレを水によって流し清める行為。斎王は、卜定から発遣までに三度、群行では六カ所の川辺で禊を行う。斎宮にいる間は、六・十二月の月次祭は多気川、九月の神嘗祭・十一月の新嘗祭は尾野湊で、各祭事の前月晦日に禊が行われた。そして外宮と内宮参入時にはそれぞれ、宮川と宇治川で禊を行っている。また、帰京時に、難波津でも禊をして入京している。なお、斎王がどのように禊をしていたかは不明である。

伊勢神宮(いせじんぐう)

皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)および別宮と摂社・末社などの総称。

内宮(ないくう)

神宮の中心となる神社。正式には皇太神宮。天照大神を祀る神社とされるが、その荒魂は境内別宮荒祭宮で祀られるので、正確には和魂を祀る宮、ということになる。『日本書紀』では倭姫命が諸国を遍歴して、最終的に度会の五十鈴川上に斎宮、あるいは磯宮を置いたとしている。これが内宮の起源伝承であるが、この伝承は『古事記』には見られない。斎王は、6月、9月、12月の各17日に参詣することになっていた。

外宮(げくう)

正式名称は「豊受太神宮」といい、祭神は「豊受大神」。内宮に祀られている「天照大神」の食を司る神として祀られている。毎日午前8時から午前9時までにかけての朝大御饌、午後3時から午後4時までにかけての夕大御饌の毎日2回、外宮御饌殿において御饌を供える「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という神事を行っている。斎王は、6月、9月、12月の各16日に参詣することになっていた。

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祭主(さいしゅ)

古代以来、伊勢神宮祭祀の最高責任者。9世紀の初頭頃に成立したものと考えられ、都に住みながら年に4度伊勢に赴き、神宮の祭に参加することになっていた。平安時代から明治まで、祭主は中臣氏が務めていた。明治維新後の神社制度の改革以後は、男性皇族または公爵以上の華族が務めるとされていた。成立当初から祭主は男性であったが、第二次大戦以後に女性祭主が成立し、元皇族の女性が一貫して祭主になるようになり、現在に至る。

大宮司(だいぐうじ)

"伊勢神宮に付随する官職の一つ。禰宜・大内人等の神職を統率して神事に従事するとともに、神郡・御薗・御厨等の神宮財政を統括した。『皇太神宮儀式帳』によれば、孝徳朝に多気郡内に置かれた神?(かんだち)を始まりとし、平安初期以降、離宮院とともに宮川左岸に置かれた。任官は、祭主と同様に、大中臣氏により独占された。平安前期、斎宮寮と神郡雑務をめぐって主導権を争ったが、次第に神郡への影響力を強めていった。"

禰宜(ねぎ)

神職の一つ。古代、神宮司あるいは神主の下におかれ、配下の祝部(はふりべ)を統率して祭祀にあたった。大禰宜・権禰宜などの呼称もある。

物忌(ものいみ)

伊勢神宮には一般的な意味での巫女はいない。それに代わるのが物忌で、禰宜氏族の荒木田・度会氏の少女(山向物忌のみ少年)が、さまざまな役で奉仕していた。中でも最も重要なのが大物忌で、神宮の大祭では正殿の床下で「心御柱」前に食事を捧げたり、斎王に代わって太玉串を立てたりした。江戸時代には大物忌のみが「子良」の名で残っていたが、明治の神宮改革で廃絶し、現在は遷宮関係儀式の時だけ臨時に任命されている。

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竹川(多気川)(たけがわ)

斎王が、都から斎宮へと下ってくる際に、最後に禊ぎを行ったとされる川。また、6月と12月の月次祭に伊勢参宮を行うにあたって、5月と11月の晦日に禊ぎを行った川だともいわれている。江戸時代には、庶民が伊勢参宮の際に川でお祓いをしていたらしく、現在は「祓川」と呼ばれている。

大淀(おおよど)

『延喜式』にある、斎王が直接神宮へ参入する三時の祭りのうち神嘗祭前月の8月晦日や、新嘗祭の前月の10月晦日に斎王が禊を行う尾野の湊のことで、徽子女王(斎宮女御)が詠んだ歌から大淀と考えられている。また、『伊勢物語』には70段で主人公が「おほよどのわたり」に宿泊した際に斎宮の童に声をかけることや、72段に「おほよどの松」や75段に「おほよどのはま」が詠まれている。

源氏物語(げんじものがたり)

平安時代を代表する物語文学。紫式部著。54帖。10世紀末から11世紀初め頃に成立。44帖までを光源氏の恋、残りの10帖で光の子・孫の世代の恋の様相を描く。六条御息所が斎王に選ばれた娘とともに伊勢に下る「賢木」、その娘が斎王を退任し、冷泉帝に入内したことで斎宮女御とよばれることになる「絵合」など、斎宮も重要な題材となっている。これらには、徽子女王(斎宮女御)との関連性が指摘されている。

伊勢物語(いせものがたり)

平安時代中期の歌物語。作者・成立年不詳。和歌を主体にした120余の短編からなる。在原業平とされる人物を主人公とした一代記風の構成をもち、数多くの恋愛譚がおさめられる。斎宮を舞台にしたものには第69段「狩の使の段」がある。

大和物語(やまとものがたり)

平安時代前期に作られた短編小説集。『伊勢物語』と同様の歌物語で、ほとんど変わらない時期に成立したと考えられている。全てが残っているわけではないが、斎宮関係では、長奉送使として斎宮を訪れた藤原兼輔(三十六歌仙の一人)が「くれたけのよよの都と聞くからに君は千歳の疑いもあらじ」の歌が記されている。斎宮の別名を「竹のみやこ」と言うのは、この物語を出典としている。

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とはずがたり(とはずがたり)

鎌倉時代に後深草院二条が書いたとされる日記・紀行文。この中で、後深草院と元斎宮の仲を二条が手引きしたと記している。

三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)

"藤原公任の『三十六人撰』に名をあげられたすぐれた歌人36人のこと。『三十六人撰』は10世紀初頭に成立したものと思われ、柿本人麿、紀貫之など歌人36人とその歌合計150首を撰出したもの。在原業平や斎宮女御(徽子斎王)も三十六歌仙の一人にあげられている。"

斎宮女御集(さいくうにょうごしゅう)

斎宮女御と呼ばれた徽子女王(929-85)の家集。徽子女王の死後、近侍していた女房たちによって編纂されたと考えられる。内容は、徽子女王の歌とともに、贈答された夫の村上天皇や娘の規子内親王、女房らの歌も収める。原本は残らず、4系統の写本が残り、収録歌数、歌の配列などが異なる。断簡である『小島切』、西本願寺本『三十六人集』が平安末期の代表的な写本とされている。

良子内親王貝合日記(ながこないしんのうかいあわせにっき)

貝合とは、左右に分かれた参加者がそれぞれ珍しい貝を州浜に風流に飾って持ち寄り、歌を詠みあい、その優劣を競う遊び。これは、長久元年(1040年)5月6日庚申に催された、斎王の良子内親王の貝合の記録である。斎宮においても幼い斎王を喜ばせるため、貝合のような催しが行われていたことがわかる。

延喜式(えんぎしき)

『弘仁式』『貞観式』を踏まえて編集された、「式」を集成・整理した法資料。式は律令の施行細則で、本来律令の本文を前提にして成立する補足であるが、斎宮は令外官なので、制定された法は式のみとなる。そのため、斎宮の式を集成した『延喜式』神祇官の項の斎宮に関する式、通称『延喜斎宮式』は、斎王の卜定から帰京に至る一連の関連法を集成したものになり、斎宮に関する総合的な規定集となっている。

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田中本春記(たなかぼんしゅんき)

藤原資房の遺した日記のこと。資房が春宮権大夫の役職にあったことから『春記』という。田中本は、国立歴史民俗博物館所蔵 「田中穣氏旧蔵典籍古文書」に含まれる長暦二年の記事を記す一巻で、父の資平とともに後朱雀天皇の皇女良子内親王の群行に従った間の記録を詳細に書きとどめている。鎌倉時代前期写で重要文化財。

伊勢神郡(いせしんぐん)

伊勢神宮領のひとつで、伊勢国にある度会、多気、飯野、飯高、安濃、三重、朝明、員弁の8郡が9世紀から12世紀にかけて寄進され神郡となり、神八郡といった。また、このうち神宮に近接し、支配が強固な度会、多気、飯野の3郡を特に神三郡という。中世を通じ徐々に神宮の支配権は衰退し、南北朝・室町期には神三郡の支配権をかろうじて維持する状況であった。

内院(ないいん)

斎宮において、斎王が居住した区画のこと。12世紀中頃成立の『新任弁官抄』には、斎宮に内院・中院・外院の区画があったとある。また、10世紀成立の『延喜式』にも内院の語が見える。斎宮跡発掘調査での大型掘立柱建物、塀等の検出により、内院の位置とその変遷が明らかにされてきている。その成立は、奈良時代後期、斎宮の大規模造営、いわゆる方格地割の整備にともなうものである。

中院(ちゅういん)

斎宮寮を区画する3区画の一つ。斎宮寮の頭以下の役人の詰所で、寮務をつかさどる寮庁・寮頭らの宿館があった。建物は、檜皮葺の掘立柱建物だとされる。「中院」の表記は『延喜斎宮式』などには現れず、12世紀中頃に編纂された『新任弁官抄』にはじめて登場するため、斎宮歴史博物館では、それ以前を「寮庁」と表記している。

外院(げいん)

平安末期に編纂された『新任弁官抄』には、斎宮が「内院」「中院」「外院」に分かれていると記している。『延喜斎宮式』には内院はあるが、外院についての記載は見られない。11世紀後半の『朝野群載』には斎宮内中外院の記述があり、その頃には区別ができていたものと考えられる。『新任弁官抄』では中院を斎宮寮関係の区画としているので、外院は斎宮寮に属する十二司などが置かれていたのではないか、と考えられている。

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斎院(さいいん)

平安時代前期以降、都の鎮護を役目として賀茂神社に仕える「斎王」が選ばれるようになり、伊勢の大神につかえる斎王と区別するため、「斎院」と呼ばれた。在任期間が天皇一代に限らないことなど斎院の規則は、伊勢の斎宮よりも随分緩やかであったようである。

賀茂斎院(かものさいいん)

斎院に同じ

方格地割(ほうかくちわり)

土地を計画的に利用するため、方形の区画を集積したかたちの地割のこと。斎宮では、奈良時代末期の光仁朝に、史跡東部に斎宮が移転し、その中心部を核にするかたちで、桓武朝に大規模に整備された。設計幅50尺(約15メートル)の計画線の内側に道路の両側側溝を掘って造営した幅12メートルから15メートルほどの区画道路によって、一辺400尺(約120メートル)を基本とする方形区画を、最大で東西7列、南北4列整備している。これは先行する伊勢路(奈良古道)を寸断するかたちで造成されており、中央政権の権威を示す国家的な都市計画であったと考えられる。

伊勢道(伊勢路)(いせみち)

古代の宮都があった奈良盆地と伊勢神宮とを結ぶ官道としての性格を帯びた道として成立。延暦13年(794年)の平安京遷都後は伊賀国を経由せず、近江国を経て鈴鹿駅家で東海道から分かれて南下するルートに替わるが、凶事の際の斎王退下路は依然として初期のルートが使われた。伊勢道諸駅には、市村・飯高・度会が置かれ、駅馬8疋が配置されていた。飯高駅の所在地とされる駅部田町から斎宮にかけては、斜行する直線道路が小字界や畦道として確認され、その方向は飯野郡条里の東西基軸線とも一致する。なお、斎宮地内及び史跡外の丁長遺跡では発掘調査によって両側溝をもつ道路遺構が約1.9キロメートルにわたり確認されており、その規模は溝心々間で25大尺から26大尺、道幅約22大尺(7.8メートル)である。古代の史料にその名称はなく、現在は便宜的に「伊勢道」「伊勢路」と呼んでいる。

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掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)

建物の柱を地中に埋め込んだ建物。日本の住居は、主に竪穴住居と掘立柱建物、礎石建物に分けられ、掘立柱建物は土間敷きの平屋建物と床を上げた高床建物に分かれる。掘立柱建物は礎石建物と違い、柱が地中に埋まっているために根腐れし易く、耐用年数は20年程度と考えられている。礎石建物は、古代においては寺院など大型建築物に用いられたが、一般的に普及するのは、近世になってからであり、それまでは、掘立柱建物が一般的であった。

庇付建物(ひさしつきたてもの)

掘立柱建物の形式のひとつ。建物の身舎に付加された細長い空間で広縁のようなもの。一面、二面、三面、四面の場合がある。日光や雨を防ぐために屋根をのばしたものではない。斎宮跡で見つかる建物はほとんどが庇を持たない形式で、庇付建物は区画の中心的な建物や、特別な建物である場合が多いとみられる。方格地割の中央部の柳原区画では、区画の中央に四面庇付建物が9世紀から11世紀にかけて、何度も建替えられ続けたことが確認されている。

土師器(はじき)

土師器は、弥生土器の流れをくむ素焼きの土器で、古墳時代以降長きにわたって使用された。一般には、赤褐色ないし黄褐色を呈する。斎宮で使用された土器の95%以上は、この土師器であり、圧倒的な出土量を誇る。主な器種に、杯・皿・椀・高杯といった供膳具のほか、甕・鍋といった煮沸具がある。斎宮跡周辺には、土師器を野焼きした二等辺三角形の窯跡が多数確認されており、旧有爾(うに)郷一帯は、斎宮ならびに伊勢神宮に土師器を供給していた一大生産地であった。

須恵器(すえき)

古墳時代に朝鮮半島を経由してわが国にもたらされた、窖窯(あながま)で焼成された無釉の焼き物。高火度の還元炎で焼成されるため、青灰色から白色を呈する。斎宮跡には愛知県猿投窯産、岐阜県美濃須衛窯産のものが多量に出土する。

緑釉陶器(りょくゆうとうき)

釉薬に鉛を用い、緑色に発色する焼き物。通常の釉薬が1200度の焼成が必要であるのに対し、鉛釉は800度で焼成できることから、日本では鉛釉が最初に用いられた。奈良時代には唐三彩を模して緑・白・茶色を配した奈良三彩が生産されたが、平安時代になり越州窯(中国浙江省)系青磁が輸入されるようになると、これを模した単彩の緑釉陶器が生産されるようになった。斎宮跡では、愛知県猿投窯産のものをはじめ、京都洛北地域や近江・東濃地域などで生産された緑釉陶器が7000点以上出土している。

灰釉陶器(かいゆうとうき)

平安時代初期に愛知県の猿投窯で生産が開始された高火度施釉陶器。釉薬に植物灰を用いており、淡緑色に発色する。椀・皿を主な器形とし、それまでの須恵器に替わって、日常什器として使用された。

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貿易陶磁器(ぼうえきとうじき)

国外で生産され、わが国に輸入や貢納などによりもたらされた陶磁器。特にわが国で磁器が生産されるのは17世紀以降のことであり、それまではすべて中国・朝鮮からもたらされている。奈良・平安時代にはその輸入量も僅少で、硬く質の高い磁器は緑釉陶器にもまさる高級品だった。斎宮跡からの出土で確実なものは9世紀から10世紀の白磁までさかのぼり、10世紀から11世紀の越州窯系青磁や11世紀〜12世紀の北宋系の白磁などとともに、都城や、当時の貿易の玄関口である九州北部を除き、突出した出土量を誇っている。

墨書土器(ぼくしょどき)

土器や陶器に文字や記号などが墨書きされたものを総称して墨書土器という。斎宮から出土した多くは、「大」「萬」「吉」「豊兆」などの吉祥句やまじないと思われるもの、「鴨」「椋人」「坂己」などの人名、「○」「三」「上」「中」などの記号であるが、文献と考古学の間隙を埋める文字資料として「水司」「殿司「水部」などの官司(役所)名や、「蔵長」「目代」「少允殿」などの官職名を記したものが23点ほど確認されている。また、内院地区では、平安時代中期から末期の「ひらがな墨書土器」が多量に出土しており、斎王に近侍する女官たちの存在を示唆している。

木簡(もっかん)

木片に書写したものを木簡と呼んでおり、中国では竹が主に用いられたのに対し、日本では木片に墨書されたものが一般的である。種類は、役所間で取り交わした文書や物品の出納記録を記載した文書木簡や、調・庸などの荷物に貢納者の姓名や品目を記した付札などがある。昭和3年に桑名市柚井遺跡で木簡が出土したのをはじめ、現在では全国で31万点を超える木簡が確認されており、当時の実態を知る貴重な史料である。なお、斎宮跡では、現在のところ木簡は確認されていない。

土馬(どば)

土馬は古墳時代から奈良時代を中心に祭祀に用いられたと考えられている。形態はさまざまあるが、大まかには馬具を粘土紐などで表現した飾り馬から簡素な裸馬へと変化していくようである。土馬は馬の形代として、雨乞いなど水に関わる祭祀に用いられたと考えられ、溝や井戸など水に関わる遺構からの出土例が少なくない。また、疫神の乗り物にみたてて、これを破壊することで疫神の到来を防ごうとしたとする説もある。

硯(すずり)

硯は代表的な文房具のひとつとして使用され続けてきた。日本における硯の生産はまず、陶硯が飛鳥時代に始まり、中世になると石硯が主流となる。硯は一般庶民のものではなく、文字を書くことのできる特定の人々によって使用されたと考えられ、それは律令体制の整備・発達による文書行政の浸透と密接な関係を持つ。したがって、都城跡・官衙跡・寺院跡古窯跡などからの出土例が多数を占めている。

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