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斎宮歴史博物館 > 斎宮事典 > 斎王一覧 > 斎王エピソード

斎王エピソード

 大来皇女(おおくのこうじょ) 

天武天皇の皇女・大来皇女は、実在が確認できる最初の斎王である。その就任は壬申の乱の翌年(673年)で、その翌年(674年)に伊勢神宮に向かった。その彼女のもとに、天武の有力な皇位継承者であった同母弟の大津皇子が訪れる。しかし、飛鳥に戻った大津は、天武崩御による政情不安定のなか、朱鳥元年(686年)、謀反の罪により死を賜る。父帝の崩御により斎王を退任した大来皇女は、父も最愛の弟もいない飛鳥に戻った。『万葉集』には、弟を想う哀切の歌が6首残る。

 

 井上内親王(いのうえないしんのう/いのえないしんのう/いがみないしんのう)

聖武天皇の皇女・井上内親王は、神亀四年(727年)に伊勢に群行した。華やな天平の時代に、都を遠く離れ、伊勢で青春の時を過ごしたのである。そして帰京の後、天智天皇の孫、白壁王と結婚し、異母姉の称徳天皇の没後、夫が光仁天皇として即位したため、皇后となった。二人の子で、聖武の孫である他戸は皇太子となり、将来の国母も約束されていた。しかし、井上は、天皇を呪詛した疑いで、他戸もろともに位を追われ、宝亀6年(775年)に揃って謎の死を遂げる。ところが間もなく名誉回復が始まり、ついには皇后に復位している。怨霊として恐れられたらしく、後世の史料には、その身は生きて竜となったと記すものもある。

 

 恬子内親王(やすこないしんのう)

文徳天皇の皇女・恬子内親王は、異母弟の清和天皇の即位によって貞観元年(859年)に斎王に卜定された。発遣の儀は、天皇が幼いためか、大極殿への臨御がない異例のものであった。その彼女が後世に名を残したのは、『伊勢物語』の中の登場人物としてである。第六十九段「狩の使」では、恬子と在原業平に仮託された主人公との一夜のロマンスが語られる。その物語が史実か作り話か歴史は明らかにしない。しかし、藤原道長の活躍する摂関期には、二人の恋の物語は事実と認識されていたらしい。

 

 雅子内親王(まさこないしんのう) 

醍醐天皇の皇女、雅子内親王には、承平元年(931年)に斎王に卜定された時、結婚寸前の恋人がいた。豪腕政治家として知られた故左大臣藤原時平の子、敦忠である。ところが伊勢に赴く彼女に、当時の政界の第一人者で時平の弟、摂政左大臣忠平の子、師輔も歌を送っていたのである。三年後、雅子が母の喪で帰京した時には、父が故人の敦忠と現役の摂政の息子の師輔の差は明らかになっていた。従四位下参議に昇進していた師輔は、晴れて彼女を妻に迎え入れ、敦忠は天慶6年(943年)に、失意のうちに世を去ったのである。

 

 徽子女王(よしこじょおう)

朱雀朝三人目の斎王が斎宮女御と称された徽子女王である。父である醍醐天皇皇子・重明親王の才芸を受け継ぎ、歌人として三十六歌仙の一人に数えられる。彼女は、斎王を退き帰京した後、天暦元年(947年)、叔父である村上天皇の後宮に入る。その蜜月の様子は「斎宮女御集」の贈答歌にもみてとれる。夫・村上の死後、娘の規子内親王が円融朝の斎王に卜定されると、徽子は慣例を破り、円融天皇が引き留めるのも聞かず、娘とともに伊勢に下ってしまう。『源氏物語』の六条御息所・秋好中宮、母娘のモデルは、徽子女王であるとされている。

 

 当子内親王(まさこないしんのう)

三条天皇の時代の斎王、当子内親王は、その発遣儀式の折に、父天皇が殊に別れを惜しんだほどの愛娘であった。群行してわずか二年、天皇は時の権力者、藤原道長の圧力に屈して退位し、帰京した彼女には、藤原道雅との恋の噂が立つ。道雅は道長との政権争いに敗れた伊周の子で、位は高いが、将来性は乏しい貴族である。父上皇は激怒して二人を引き離し、その直後に世を去る。寛仁元年(1017年)のことである。当子は出家、道雅は無頼の余生を送り「荒三位」と称された。

 

 良子内親王(ながこないしんのう)

後朱雀天皇の長女、良子内親王は長元9年(1036年)、8才で斎王に卜定された。同母弟に後三条、同母妹に賀茂斎王となった娟子内親王がいる。前任の斎王が起こした託宣事件の余波もあり、今上天皇の幼い愛娘が斎王に選ばれたのだった。その群行の様子は、随行した貴族・藤原資房の日記『春記』に詳しい。また、「斎王貝合日記」という歌合の記録からは、斎宮の日々の一端を知ることができる。7年間を伊勢で過ごし、都に戻ったのは父の崩御後のことであった。

 

 やすこ内親王(やすこないしんのう)

白河天皇の娘、やす※子内親王は、母の喪で帰京したのち、弟の堀河天皇の准母(母親格)となり、独身のままで皇后の位に就き、ついで女院、つまり女の上皇となった。専制君主白河院はこの娘を溺愛し、天下はその掌の中にあるとさえ言われていた。ところが永長元年(1096)に大流行した田楽にのめ込みすぎ、わずか20才で急死してしまう。未婚の皇后を経て女院になるというエリートコースを歩んだ斎王の第一号での人生はあまりに短かった。

※「やす」の字は「女」扁に「是」。

 

 愷子内親王(やすこないしんのう) 

鎌倉時代、亀山天皇の時代の斎王愷子内親王は、伊勢の神が帰京を拒んだといわれる美貌の持ち主と噂されていた。彼女は文永9年(1272年)に都に戻ったが、その心を射止めたのは意外な人物であった。亀山の同母兄で、愷子の異母兄、後深草上皇だったのである。しかも二人の間を取り持ったのは、後深草の愛人、二条であった。しかし多情な上皇には、手折りやすい桜花に例えられた彼女は、あまりに物足りなかったのであろう。二人の関係は長く続くことはなかった。『我が身にたどる姫君』という中世小説に現れる「狂斎王」のモデルは彼女であるとする説もある。

 

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