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第97話 中勢鉄道案内図


中勢鉄道案内図

中勢鉄道案内図

中勢鉄道案内図  新時代の幕開け

 津市の中央を流れる岩田川の南詰めから、久居まで約5キロ結んだ鉄道があった。大日本軌道という会社で「へっつい機関車」と呼ばれた小さな蒸気機関車がマッチ箱のような客車を引っ張って走っていた。大日本軌道は、明治の実業家、雨宮敬次郎が設立し、福島から熊本にかけて八つの支社を設けて、地域の素封家とともに軽便鉄道の経営にあたった。
 伊勢支社の設立にかかわったのが、伊勢新聞社長や衆院議員となる松本恒之助だ。当初は津−四日市に鉄道を敷設するために雨宮を訪ねたが、「津−四日市は関西鉄道と競合するから不利益だ。津と連隊設置の動きがある久居と結んだほうが有利」ということで、久居を中心に津と一志郡との谷あいに路線を敷設することになったと言われている。
1906年に伊勢軽便鉄道として設立されたが、08年に雨宮系の軽便軌道8社が合併、伊勢軽便鉄道は大日本軌道伊勢支社となり、同年11月に久居−阿漕が開業した。
 その後、岩田橋までの延長、省線阿漕駅への貨物連絡線を開業させ、活況を呈した。雨宮の死後、大日本軌道は解体に向かい、伊勢支社は中勢鉄道として、20年に再出発する。
 だが、28年に、参宮急行電鉄(後の近鉄)に株式の大半を買い占められ、傘下に入る。29年には中勢鉄道名義で久居−中川駅の免許の申請が行われ、後に参急に免許が譲渡され、参急津支線として敷設されることになる。
 30年には参急津支線と久居駅で連絡し、31年には鉄道省名松線が開業し、伊勢川口駅で接続が図られたが、輸送力、速度に劣る軽便鉄道規格の中勢鉄道の客は大きく減少し、バス路線網の整備なども相まって存在意義を失っていく。41年には親会社の関西急行鉄道(大阪電気軌道が参急を合併して名称変更)から鉄道省あてに同鉄道を撤廃し、資材を傍系の三重鉄道内部線(四日市市)に充当したいと申し出ている。そして、43年2月に会社は解散となる。
 なお、興味深いことは、雨宮に断られた路線を開業間もない10年には松本らが中心となり、津−四日市の免許を取得し、大日本軌道伊勢支社内に事務所を構えたことだ。後に四日市の実業家、熊沢一衛を社長に迎え、伊勢電鉄として大躍進し、中勢鉄道の親会社の参急と競争をする。36年には参急に吸収合併されることになるとは、誰も予想しなかったに違いない。
 今回紹介する資料は中勢鉄道沿線の名所を案内したもので、名古屋を中心に活躍した新美南果による鳥瞰(ちょうかん)図が、色鮮やかに描かれている。伊勢鉄道(後の伊勢電鉄)の津−四日市は記載されているが、参宮急行電鉄津支線や鉄道省名松線が記載されていないことから、25年の伊勢川口までの中勢鉄道の全線開通直後に作成されたものと推測される。鳥瞰図には阿漕浦や雲出川下流には帆かけ船が浮かび、雲出川にはアユが描かれている。東洋紡や関西製糸の工場も記され、新しい時代の到来を予感させる。

(県史編さんグループ 伊藤裕之)

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