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第93話 「唐国流船記」


「唐国流船記」冒頭部分

「唐国流船記」冒頭部分

「唐国流船記」表紙

「唐国流船記」表紙

「唐国流船記」 志摩の船台湾へ

 1757(宝暦7)年9月15日の寅の刻(午前4時ごろ)、鳥羽藩布施田村(現志摩市)の小平次の船が、大坂で荷を積み、志摩の佐尾崎まで来たところで嵐に遭い、漂流の後、外国に漂着し2年後に帰国した。これを記録した写本の1つ「唐国流船記」が県史編さんグループにある。「唐」は当時、中国や朝鮮をはじめ外国全般を意味した。
 小平次の船は6人乗り。佐尾崎は他の写本の記述から志摩市の大王崎と考えられている。初め東へ、次に南西へ、そして北へと計150日程漂流したという。この日数通りなら、陸地に漂着したのは翌年の2月半ばになる。
 漂流中、最も苦労したのは飲み水だった。積み荷の白砂糖で口の中を潤したり、北へ流されると、夜に船の金具についた水滴をなめたりした。それでも、渇きのため2人が死亡した。
 陸地が見えると、端舟で海岸に着いた。土地の人は弓、鉄砲を持ち、皮の服を着て恐ろしげで言葉が通じなかったが、水が欲しくて何度ものどをかいてみせると、清水の出る所へ案内された。皮の衣服に着替えさせられ、端舟は壊されて釘(くぎ)を抜き取られた。「都」までの移動中、村々ではだんごをもらい、「都」では食事が1日3食出た。役人に地図の「日本」と書いてあるところを示すと納得した様子だった。この地は「台湾国」で「殿」から米、銭、酒を頂いた。ここで1人が病気になり、複数の医者の治療のかいもなく死去すると、町の大きな寺にねんごろに葬ってくれた。
 その後、残った3人は中国本土に渡り、11月下旬に南京に着いた。役所へ行く途中、伊勢の宇治橋のような黒塗りの欄干がある橋を通った。役所では出身地や漂流の様子について問われた。板銀をもらい、宿で銭に替えると1人600文ずつになった。宿での食事は、朝は白かゆ、昼と夜は一汁五菜で、酒も出た。また、綿入れや正月用の羽織・帯などの衣類が支給された。年末の3日間は日本へ商いに行く唐人数名と酒盛をした。言葉も少しは通じるようになっていた。
 南京発は1759年の3月25日。宿の亭主、女房など200人が名残を惜しんでくれた。毛氈(もうせん)などの餞別(せんべつ)をもらい、「殿」からは通行証と思われる板金を与えられた。このころには台湾漂着時の第一印象とは全く異なり、「情深く、真実なる処の人心」、「結構なる国」と好印象に変わっていた。
 4月25日に長崎着。鳥羽着が閏(うるう)7月(7月とする写本が多い)23日だった。「唐国流船記」は、この時鳥羽で作成された記録を翌年の3月以降に書写したもののようだ。ちなみに、他の写本によると、鳥羽に戻った3人は藩から一生船に乗ることを禁じられたともいう。
 この出来事は、写本の多さの割にはあまり知られていない。研究の余地も多いと思われる。 

(県史編さんグループ 小坂宜広)

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