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第91話 三重県の地籍地図


「飯野郡上七見村全図」

「飯野郡上七見村全図」

三重県の地籍地図 全村数の3/4が現存 
           
今年3月11日に県指定有形文化財(歴史資料)に指定された「三重県行政文書」には、4342点の絵図地図類があり、その中に1884(明治17)年から89年にかけて作製された1364点の村ごとの地籍地図が含まれている。当時の県内の町村数は1800余で、その4分の3が残っていることになる。地図は村単位で、すべて6000分の1の縮尺で描かれている。図版の大きさは、おおむね40〜60センチ前後のものが多いが、村の面積や形状に左右されており、中には一辺が1メートルを越えるものもある。
写真は「飯野郡上七見村(現松阪市)全図」と題された地籍地図で、大きさは44×38センチ。現在でも、県内で条里制遺構が残る数少ない地域だ。作成は明治19年5月30日とあり、上七見村の戸長の園部理平の名と公印のほか、隣接する周辺の村々の戸長名が列記され、公印が押されている。園部は上七見村のほか、菅生村や清水村、豊原村、櫛田村も管轄していた。和屋村、立田村、大宮田村、下七見村の戸長は須田好問で、魚見村は澤村好三郎とある。この当時は連合戸長役場が置かれ、数カ村を管轄していた。
測量兼図面作成人として豊原村の岩田計之助の名がある。岩田は早馬瀬村、高木村、目田村、伊勢場村、櫛田村など飯野郡や飯高郡の村々の地籍地図の作製にもかかわっている。ちなみに測量作業に17カ村、調製作業に31カ村で従事するなど県内でも屈指の地図調整人であった。右下に方位と凡例があり、この図面は下を北として描かれている。寺社は赤色、建物は黒で描かれ、当時の集落の様子も読み取れる。現在の地図と比較するとその変化を知ることもできる。
これらの地籍地図は、どれを見ても同じ記載方法がとられており、一定の規程のもとに県内の村々の地図が作製されている。そのことを示す公文書が明治期県庁文書にある。「明治16年三重県乙号達」という簿冊に綴(と)じられたもので、12月28日付で三重県令の岩村定高から郡役所・戸長役場あてに出された乙第222号という文書だ。
それによると、地籍の編さんには1町村ごとに別紙心得書に準じて地籍表と図面を作製することとある。期限は翌年6月30日限りとあるが、県内すべての町村を対象とした大事業であり、残されている地図を見ても作製期限は延長されたようだ。この文書では、隣接する町村の戸長の立ち会いの上、境界を確認して実測することや縮尺は6000分の1とすることとしている。
また、当該戸長、立会戸長と測量人の署名、押印をすることや山林、河川、道路など地目別の彩色、小学校、社寺等の名称を付すこと、神社や宅地、公園などの地図記号が定められている。中には現在の地形図で使われている地図記号と異なるものもある。
8月22日までの間、松阪市文化財センターで県立博物館移動展示「水の恵みとゆくえ」が開催されている。会場には、今回の地図をはじめ、数点の地籍地図も入れ替えて展示されており、実物を見ることができる。

(県史編さんグループ 服部久士) 

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