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第89話 県行政文書の神仏分離史料


『明治二年巳七月 復正寺院調帳』表紙

『明治二年巳七月 復正寺院調帳』表紙

『明治二年巳七月 復正寺院調帳』

『明治二年巳七月 復正寺院調帳』

県行政文書の神仏分離史料 僧侶たちの就職難示す

県の有形文化財「県行政文書」には、明治初年の度会府の文書も多数含まれている。その中には明治新政府が祭政一致を掲げ、神道の国教化を図り、神仏習合を禁じる「神仏分離」の史料が多量にある。
明治初期には神仏分離政策によって、全国で寺堂・仏像などが破棄される廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が引き起こった。度会府は江戸時代までの伊勢神宮領を管轄する地域で、天皇家の祖先神をまつる伊勢神宮が神道国教化の中核に位置付けられると、門前町(鳥居前町)として発達をした宇治と山田では、神仏分離政策が積極的に行われることとなった。
1869(明治2)年3月、の天皇の初めての伊勢神宮行幸が計画されると、さらに徹底される。例えば、直前の2月、度会府当局は「神領中沿道にある仏閣仏堂をことごとく取り払い、宇治・山田の町家では仏書・仏具などの商売をしてはならない」と命じている。宇治、山田での神仏分離政策は、寺院の排除と葬儀の神式化に大別できる。
県行政文書の中の関連史料をまとめると、68年10月以降、宇治・山田各町の組頭や周辺の村の役人から神葬祭への変更願いが出されている。仏葬が減って寺院の経営を直撃し、その後、廃寺願いや僧侶の復正(還俗)の願いが相次ぐ。69年1月までに宇治と山田合わせて109カ寺が廃寺に追い込まれた。
 こうした動きは、寺院側が廃寺と還俗を願い出たこと形になっているが、事実上、僧侶の失業を意味した。「明治二年巳七月 復正寺院調帳」では、同年1月までに復正願を出した寺院を対象にした調書で、所在地や宗派、還俗後の姓名などのほか、還俗後の希望職種が書かれている。それを見ると「百姓願」のほか「幼童手跡指南」「筆道指南願」「漢学剣道願」「筆道願」などの教育や「目医師」「医業願」といった医療、または「村会所書記願」「山守」「天満宮社守」といった仕事に加え「相応御用願」と職種を示していないものも多い。
 度会府でも69年4月、還俗に応じた僧侶の中から43人を度会府所属兵として「帰神隊」を組織した。いかにも神道に帰依する隊として命名も興味深いが、国の行政組織の変更で、帰神隊は3ヵ月余りで解散する。その後、元隊員から帰神隊への再採用の嘆願書が出されるが、願いは届かなかったようだ。提出者の顔ぶれには、先の「復正寺院調帳」で「幼童手跡指南」や「百姓願」などを希望していた人が含まれ、神仏分離政策によって生活基盤を失った僧侶の転職が難航した一面をうかがわせている。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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