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第81話 「海山道、四日市港間鉄道敷設免許」書類


海山道停車場平面図

海山道停車場平面図

「海山道、四日市港間鉄道敷設免許」書類  臨港線、金融恐慌で幻に

 石油コンビナートの街、四日市には全国的に珍しい貨物専用線が残っている。JR貨物機に引っ張られてきた貨物列車は、スイッチャーと呼ばれる小さな機関車に付け替えられて、各事業所に吸い込まれていく。
 北勢地方では、四日市港との物資輸送を図るため、1920年代に各鉄道会社から敷設免許申請が行われた。県史編さんグループが保管する資料に「海山道、四日市港間鉄道敷設免許に関する書類」と記された一冊の簿冊がある。
 1915(大正4)年に開業した伊勢鉄道(26年に伊勢電気鉄道と改称)は、四日市港から陸揚げされる物資を揖斐川電気養老鉄道経由で岐阜や北陸方面に運ぶ目的で、26年11月23日に「臨港線敷設免許申請」を行った。大正デモクラシーが終焉(しゅうえん)を告げ、金融恐慌が忍び寄るころだった。申請書によれば、起点は三重郡日永村六呂見(海山道駅周辺)、終点は同郡塩浜村大字旭。延長70鎖(チェーン)(約1.4q)の貨物専用の電化単線だ。
 藤原鉄道(後の三岐鉄道)も藤原岳で採掘した石灰石を精錬工場のある川島村まで運び、四日市港まで結ぶ路線を申請しており、途中での交差が避けらないため、共同使用となる北旭停車場の設置などの調整が必要で、29年に工事変更許可が出された。このころ、伊勢電気鉄道(伊勢電)には実業家熊沢一衛が社長に就任、全線電化し、大阪からの参宮急行鉄道(参急)に対抗して伊勢神宮への延伸、さらに名古屋との直結を目指して積極的な投資を行った。
 先の臨港線敷設の簿冊には、着工されたことをうかがわせる書類は存在しない。昭和金融恐慌の影響を受け、33年に「工事資金ノ調達ノ事情ニ拠リ着手困難ニツキ」着手期限と完工期限の延期を申し出ている。このころの伊勢電は過剰な投資がたたり、経営難に陥るだけではなく、熊沢氏が疑獄事件に巻き込まれるなども加わり、新線建設を断念したようだ。34年にも期限延長が認められるが、一向に建設されず、毎年、期限延長を申し出るばかりだった。その後、伊勢電は36年に参急に吸収合併され、参急により工事延期が申請されるが、11月に鉄道省が「成業ノ見込無キモノト認メラルル」と判断、免許は失効する。
 ただ、興味深いことは、伊勢電の手による臨港線は幻となったが、戦時輸送体制の強化の中、省線四日市駅から海軍燃料工廠(こうしょう)のある塩浜まで軍事輸送のための貨物線(現JR関西本線貨物支線)が44年に建設された。近鉄海山道駅の東側には、建設図(写真)と同じように4線ほどの入れ替え線が設けられ、臨港線とほぼ同じルートで引込み線が造られ、戦後は三菱モンサント化成が貨物輸送を行った。
 県庁に残されたこの公文書は、最終的には免許失効という形に終わるが、何とかして地元資本の手で地域の産業経済を発展させようと願った人々の熱い思いが今でも伝わってくる。

(県史編さんグループ 伊藤裕之)

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