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第63話 七ツ塚保存施設関係資料


七ツ塚補助金申請絵図

七ツ塚補助金申請絵図

七ツ塚の石碑

七ツ塚の石碑

七ツ塚保存施設関係資料 77年前史跡の思い今も

 七福神、七堂伽藍(がらん)、七人の侍などの言葉があるように、「7」はきりのよい数として、あるいは「ラッキーセブン」というように縁起のよい数として使われる。古墳も数基まとまっていると、「七ツ塚古墳群」などと呼ばれることがある。
 菰野町杉谷にある古墳群「七ツ塚」に碑を建てて保存、顕彰するため、1931(昭和6)年7月20日付けで、尾高山保勝会の市岡喜兵衛が、当時の市村慶三知事に補助金を申請した「七塚(ななつづか)保存施設補助金下附(かふ)申請書」が、県庁文書として残っている。それは、「史蹟(しせき)名勝天然紀念物関係書類」という簿冊の中にある。
 県は27年7月に「三重縣(けん)史蹟名勝天然記念物保存費補助規程」を定め、保存、顕彰に必要な施設を建設する際に補助金を交付できるようにした。31年には七ツ塚のほか、五箇篠山城記念碑や伊賀越復讐遺跡保存施設など合わせて11件の申請があった。
 これを受け、11月17日に「史蹟名勝天然紀念物調査會(かい)」(委員13人)が審議した記録も残っている。その結果、5件で補助金が認められたが、七ツ塚は認められず、保留とされた。
 七ツ塚の申請書の説明では「大塚四間以上二個、中塚三間以上三個、中塚半倒(半壊)一個、中塚全倒(全壊)一個」となっている。1990年の「菰野町遺跡地図」によると、高塚古墳群がこの七ツ塚にあたり、菰野町杉谷字高塚の西三岡共同墓地周辺に5基が残っている。いずれも円墳で、1号墳が直径13.5〜16メートル、2号墳が直径15〜19メートルの規模だ。「大塚四間以上二個」が1、2号墳と考えられる。3、4号墳は直径10メートル、5号墳は4分の1欠損となっており、この3基が「中塚三間以上三個」にあたるのだろう。申請書の添付図では、墓地の北側に「中塚半倒一 個」が描かれているが、今はみられない。
 現在、高塚1号墳の墳頂には碑が建っている。菰野特産の花崗(ごう)岩製で、高さ120センチ、幅60センチ・厚さ12センチの板状。上部がとがった五角形をしており、高さ30センチの台座に載っている。七ツ塚の由来が書かれた後に「三重縣史蹟保存御指定地」と記しており、1932年12月24日の日付があることから、いったん保留になった補助金が翌年、認められたのだろう。申請の図には枝ぶりのよい大きな松が描かれ、その下に碑を建てるように計画されているが、現在、松はなくなっている。
 県は35年1月、「三重縣史蹟名勝天然紀念物保存顕彰規程」を公布した。そして、第二次大戦後の50年3月に県文化財保護条例を制定し、文化財の県指定ができるようになった。七ツ塚は県指定文化財にはならなかったが、尾高山保勝会の会員や地元の方々の地域の史跡に対する思いを伝えるかのように、77年たった今も、碑は静かに古墳の上に建っている。                         

(県史編さんグループ 本堂弘之)

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