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第59話 明治期の本草学者 丹波修治


明治10年内国勧業博覧会書類(三重県所蔵)

明治10年内国勧業博覧会書類(三重県所蔵)

明治期の本草学者 丹波修治 内国勧業博覧会に従事
  
 旧三重県と度会県が合併し、現在の三重県が誕生した翌年の1877(明治10)年、東京・上野で「第1回内国勧業博覧会」が開催された。8月21日から11月30日までの約3カ月、全国から8万点余が出品され、45万人が入場した。この博覧会には、本草学者の丹波修治が三重県職員としてかかわっている。
 明治政府は、ウィーン万国博覧会への出品のため72年に博覧会事務局を設けた。丹波は出品取調(とりしらべ)御用掛(がかり)として東海地方の物産取調に従事し、多くの標本を収集した。博覧会が殖産興業に有効な手段と考えた政府は、勧業博覧会や共進会を積極的に推進し、内国勧業博覧会は明治後半まで5回開催された。
 江戸末期から明治期の本草学は博物学へと進展した。県内の本草学者には、京都で学んだ人たちと名古屋の伊藤圭介を師とする人たちの二つの流れがあった。丹波は1828(文政11)年に尾張国で生まれ、若いころに伊藤圭介の門下となった。その後、朝明郡川北村(現四日市市)の医師、丹波家の養子となり、医業の傍ら本草家として伊勢、伊賀、志摩、紀伊の各地域を巡り、数多くの書物をまとめた。
 同じく伊藤を師とする鎌井松石(しょうせき)は、72年に旧三重県から物産取集御用掛を申しつけられ、旧県内の物産をことごとく調査した。76年には60歳で三重県の内国勧業博覧会御用掛として準備にあたっている。
 その後、内国勧業博覧会が開催された77年に、49歳になる丹波修治が三重県職員に任用された。県庁文書の「明治10年内国勧業博覧会書類」では、第2課勧業係として丹波の名が登場してくる。丹波はほどなく博覧会の東京事務所へ出張となった。第2課との間の往復文書が多くあり、8月7日付文書では博覧会に向けての準備が整ったことを、手書きの会場見取り図を添えて報告している。
 丹波は第1回内国勧業博覧会の後、三重県物産博覧会や大阪の共進会、81年の第2回内国勧業博覧会などでも県の専門職員として活躍した。82年に県職員を辞し、翌年に鎌井らと交友社という団体を組織し、勧業、衛生、教育などの協議、収集品陳列、研究会や講演会など明治後半まで活躍を続けた。
 県立博物館には、丹波修治関係の収集資料が17箱の保存箱に収められている。その中に第1回内国勧業博覧会の審査表がある。丹波は内務省から審査員を委嘱されており、審査表に青鉛筆で書き込みがある。審査時の手控えだろうか。同博覧会での丹波の活動の一端を証明する資料だ。
 計画が進む新県立博物館では、博物館資料と歴史的公文書が同じ施設で保存される。新たな三重の姿が浮かび上がってくることだろう。        

(県史編さんグループ 服部久士)

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