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第53話 幕末期の海防資料


郭外官地絵図贄崎砲台図

郭外官地絵図贄崎砲台図

神領一色村御砲台絵図

神領一色村御砲台絵図

幕末の海防史料 外国船来航に備え台場

 三重県史編さんグループには、明治期の県庁文書が所蔵され、現在、閲覧公開されている。その中には城郭測量図などがあり、そこに交じって、大砲を設置した台場に関する幕末期の絵図が数点ある。この絵図が作成された背景を紹介したい。
 紹介するのは「郭外官地絵図贄崎(にえざき)砲台図」と「神領一色村御砲台絵図」だ。
郭外官地絵図贄崎砲台図は、津藩が外国船の来航に備え、海岸防備のため1863(文久3)年に津城海口の贄崎に築いた台場の図だ。縦51センチ、横65センチで、土盛り部分を緑色としているほかは、墨書きされている。
 この図によると、台場の総面積は2060坪、平地部分が950坪で、台場そのものは変形六角形。海岸部に面した場所にメーンの大砲が6門、それぞれ間口2間、奥行き3間の板屋根小屋に据え付けられ、周囲にも間口1間、奥行き9尺の五つの板屋根小屋に1門ずつ大砲が設置されていた。
 神領一色村御砲台絵図は、津藩の支藩だった久居藩が神宮領一色村(現伊勢市)に築いた台場の図で、大きさは縦78センチ、横157センチ。64(元治元)年10月のものだ。
 台場は五角形で、図には「今般神宮警衛のため字向崎の塩浜へ御砲台を御取立」とあり、敷地代として米8升3合8勺余りが下されるという取り決めが行われている。この図や別の史料から、この台場は64年3月に普請を開始し、10月には完成したことが分かる。
 幕末期に津藩、久居藩の台場が相次いで建設されたのはなぜだろう。それには時代背景と幕府の政策が関係している。
 江戸時代の後期になると、諸外国の植民地政策に伴い、日本近海には外国船が出没するようになった。幕府は鎖国政策によって外国船の排除を目指すとともに、海防を重視した。さらに天保の改革期には、全国的な海防強化政策を取り、幕府は1842(天保13)年、津藩に神宮近海の防衛を命じた。そして開国後の58(安政5)年に神宮警衛を津藩へ指示し、63年に鳥羽、野村(大垣藩の支藩)、尾張、久居各藩が神宮警衛に加わった。
 津藩を例にとれば、具体的な警衛体制が整えられるのは62年以降、津藩が神宮防衛のため二見(現伊勢市)に大砲を備え付けてからだった。62年9月に神宮警備にあたり、山田奉行にも掛け合って大砲を内宮、外宮に各2門献納した。
この4門は間口7間、奥行5間ほどの大筒小屋を建設して二見に配備され、12月には4門の試し撃ちも行っている。さらに63年2月、今一色村での台場の建設に取り掛かった。
 外宮の門前町だった山田や付近の村々から手伝い人足を毎日50〜60人差し出すよう命じ、今一色村、西村、荘村の北三郷には人足の代わりに日々の茶の世話をさせた。そして3月には藩主藤堂高猷(たかゆき)の巡視が行われ、5月14日に台場が完成したことが伊勢神宮の「長官日記」に記されている。
 このように津藩、久居藩は幕末期に領内の海防と神宮警衛のため、伊勢湾入口にあたる神宮領に多くの台場を建設したのだった。    

(三重県史編さんグループ 藤谷 彰)

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