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第51話 山本大夫屋敷図


山本大夫屋敷図(県史編さんグループ所蔵)

山本大夫屋敷図(県史編さんグループ所蔵)

山本大夫屋敷図 夢のような御殿

 県史編さんグループが所蔵する「山本家文書」に、内宮の御師(おんし)山本大夫の広大な屋敷の図がある。「山本家文書」は、2005(平成17)年に一括資料として購入したもので、山本家の系図や系譜類のほか多数の貴重な資料が含まれていた。
 屋敷図の料紙は、薄手の楮紙(こうぞし)8枚を貼り合わせたものが用いられている。大きさはおおよそ101cm×78cmである。図面には「嘉永四辛亥年五月坪改之節図取」とあることから、1851(嘉永4)年の坪改めに際して作成されたことがわかる。
 山本大夫は内宮権祢宜で、内宮御師でもあるとともに、宇治の町政を司る宇治会合年寄の家格を持っていた。また、山本家の系譜によると、慶光院周清上人弟子の周宝をはじめ、周長・周貞など、歴代の慶光院主を多く出した家としても知られている。そのためか、「山本家文書」中には、1827(文政10)段階での慶光院の屋敷図面も含まれていた。
「山本家文書」中の1666(寛文6)年6月2日付けの由緒書によると、同年3月には慶光院主の親元ということで、公儀の御師を仰せ付けられ、三重郡内に二百石の所領を与えられている。また、
このほか山本大夫は、近衛家や九条家・二条家などをはじめとした多くの公家や、津藤堂家などの大名家の御師も務めていた。1879(明治12年の「旧師職総人名其他取調帳」によると、山本大夫の檀所は、東は武蔵・下総、北は出羽・越中・越前・加賀から、西は摂津・丹波・和泉に及ぶ。ただし、配札檀家数は6932戸で、決して多いものではなかった。
 山本大夫の屋敷は、現在お陰横丁で賑わう中之切町の、赤福本店から北へ数軒の所に位置していた。周囲には、北は世古を挟んで梅谷大夫の屋敷、西は参宮道を挟んで薗田桃神主邸があった。
屋敷図には張り紙で総坪数を364坪と記すが、絵図に記された間数から計算すると建物の敷地面積はゆうに700坪を越え、おおよそ2300uあった。屋敷内の部屋数は、畳敷きの部屋だけでもざっと50室以上を数える。
それでは、屋敷の中を見ていこう。
参宮道に面して続く塀の中程にある大きな長屋門をくぐると、先ず広い中庭に出る。右側には、多くの公家・大名を檀家に持つ山本大夫らしく、「馬屋」と「供侍」の部屋が設けられている。
庭の正面には、2坪半の広さの玄関。そこを抜けると、8坪の板間を挟んで10畳の部屋が6室並んでおり、ここが一般檀家の宿泊に使われたと考えられる。
神楽殿は、玄関前の板間から南に向かった別棟になっている。神楽殿の前には、合わせると68畳にもなる部屋が設けられている。神楽の後、ここで豪華な「神楽膳」が出されたことだろう。
屋敷の東、五十鈴川に面した一画には、「潔斎所」と記された間や、「上段」と記された部屋があり、
特別な場所であったと考えられる。風呂場も別に設けられており、公儀の代参や、公家・大名家のた
めの施設であったと思われる。また、台所も2ヶ所あり、その一つには「上台所」とあり、一般と公家・大名用の台所が別になっていたようである。それに対して御師の私邸部分は屋敷の北西隅の区画で、庭を通って北の世古に出られるよう、小さな門が設けられている。
現代から見ても、まさに夢のような御殿である。そこで夢のような御馳走をいただく。一生に一度の伊勢参宮。こぞって伊勢をおとずれた参宮者の気持ちもわかる気がする。

※平成25年1月に写真及び本文を修正しております。           

(県史編さんグループ 小林 秀)

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