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第47話 谷川士清の顕彰


県が保管する「谷川士清御旌表(せいひょう)ノ儀ニ付御願書

県が保管する「谷川士清御旌表(せいひょう)ノ儀ニ付御願書

谷川士清の顕彰 師範学校長らが請願

 江戸時代の国学者、谷川士清(ことすが)は、1709 (宝永6)年2月26日、今の津市八町に生まれた。今年は、「生誕300年」ということで、地元では各種のイベントが行われた。
 しかし、士清について取り上げている中学や高校の社会科・日本史の教科書がほとんどなく、全国的な知名度はそれほど高くない。そんな士清の業績をもっと広めたいと願っていた人たちの活動がある。
約100年前の1912(明治45)年3月に相澤英二郎が出した「谷川士清御旌表(せいひょう)ノ儀ニ付御願書」が、県庁文書として残っている。旌表とは「人の善行をほめて、広く世間に示すこと」だ。相澤が谷川士清先生事蹟(じせき)表彰会発起人惣代(そうだい)として出した「御願書」は、袋とじで10ページからなり、副本とともに保管されている。送付状は添付されておらず、残念ながらあて先は明らかではない。
 内容を読むと、松阪出身の本居宣長が正四位を贈られているのに対し、士清については「日本書紀通証」や日本最初の50音順に配列した国語辞典といわれる「和訓栞」(わくんのしおり)などを著し、後の学問に大いに寄与しているにもかかわらず、「未ダ何等ノ殊遇ヲ見ルコトヲ得ズ誠ニ遺憾」とし、贈位するように訴えている。「御願書」の甲斐(かい)もあってか、1915(大正4)年の御大礼に際し、士清に従四位が追贈された。
 この文書を出した相澤は当時、三重県師範学校校長をしていた。在職は06年〜13年の7年におよび、その間、学校の充実と発展、校風の確立に貢献した。また、郷土文化の高揚にも努め、08年に県事務官の高橋要治郎らとともに谷川士清先生事蹟表彰会を組織した。発起人には相澤、高橋両名をはじめ、当時の安濃郡長、新町町長、津市商工会会頭、師範学校教諭など130人以上が名を連ねている。
 同会では士清についての講演会や展覧会を開くなどの広報活動や、反古塚(ほごづか、士清が著書の草稿・断片などを埋めた塚)の整備などを行うとともに、師範学校の歴史科と国語科の教員を中心にして士清の研究を進めていった。そして、研究の成果を「谷川士清先生伝」として11年に出版した。この本には、士清の家業は医者で父は名医であったこと、士清も跡を継いで医者となり、すこぶる評判が高かったことなどが記されている。
相澤らの後、1922年に谷川士清先生遺跡保存会、53年に谷川士清先生顕彰会、71年に谷川士清顕彰保存会が組織され、士清の業績を顕彰しようとする運動が進められた。
 先人の努力によって、士清旧宅、墓、肖像画像、関係資料、反古塚が国や県、市の文化財に指定されている。旧宅は士清が生活していたころの建物に復元され、一般公開されている。士清の著書などの展示もあって、見学に訪れる人は多い。

(県史編さんグループ 本堂弘之)

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