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第37話 「天誅組騒動」の警備


白樫村の御用留の一部

白樫村の御用留の一部

「天誅組騒動」の警備 延べ206人酒の記述も

 1863(文久3)年8月、孝明天皇が攘夷(じょうい)祈願のために大和へ行幸すると決定した。その先駆けをしようと尊皇攘夷急進派が兵を挙げ、大和五条の代官所を襲撃したり、十津川の郷士を募って、高取城を襲撃した騒動が起きた。結局、この騒動は諸藩の追討を受けるなどして9月に鎮圧された。「天誅組(てんちゅうぐみ)騒動」と言われる有名なものだ。その騒動にかかわる史料が、県史編さんグループに保存されている。
それは、騒動を起こした浪人などが津藩領に進入しないようにするための大和・伊賀国境に設けられた警固所についての史料である。警固所は各地に置かれたが、史料は伊賀郡白樫(しらかし)村(現伊賀市)のもので、御用留や入用帳である。
御用留は、白樫村の長谷に、警備場所を示した8月23日から始まる。8月17日に五条の代官所が襲われているから、一週間後ということになるが、警備の解かれた10月20日までの記事が書き留められている。
この警備は、主に猟兵組(りょうへいぐみ)・鉄炮持(てっぽうもち)猟師・人足で構成され、白樫村の農民たちが鉄炮持猟師・人足として警備に当たった。また、入用帳などから見る限り、警備のための建物や炊き出し小屋を建て、交代で警備を行ったようだ。
まず、8月25日、藩は白樫村や隣村の治田村の鉄炮持猟師約25人に対し、長谷詰めを指示し、同時に鉄炮と玉薬を用意して、沙汰(さた)次第出張するように申し付けた。9月6日の記録で藩士3人、猟兵組24人、鉄炮猟師19人が昼夜交代で警備に当たった。
 ただ、この警備の最中には、さまざまな問題が露呈した。たとえば、猟兵組の夜具は警備日数が長かったので損傷が激しく、貸方から返却の催促を受けていることや、しばしば猟兵組士や鉄炮猟師が病気や家の事情などで交代している。
特に、交代は警備兵を出した村落内で行うこととなっていた。しかも、警備道具一式(鉄炮・火縄・玉薬・飯籠(めしこうり)・夜具・雨具等)は自弁だったので、交代要員を確保することも大変だったようだ。
こうした事態を解消するため、9月22日以降は、猟兵組・鉄炮猟師ともに5日ほどの「休足日」を設定して交代で休ませる措置を講じている。さらに、10月5日には、猟兵組は15日、鉄炮猟師は10日交代とする旨の触れを出した。
そして、この警備が終了した10月20日には「出張居(でばりおる)猟師今廿日限
(はつかぎり)引き取らせ」、それ以降12月ごろまで、警備にかかった費用を記載した入用帳を作成し、精算を行っている。
 最終的に、白樫村長谷詰め警備について、8月23日〜10月10日の延べ人数は▽庄屋4人▽組頭2人▽無足人15人▽猟兵24人▽鉄炮持猟師126人▽詰郷夫6人▽焚き出し係22人▽詰番人7人−の206人にのぼった。
白樫村の警備が過重な負担を強いたとはいえ、ここからはあまり緊迫した様子は伝わってこない。なぜなら、入用帳に、炭・蝋燭(ろうそく)・油・割木(わりき)・縄・火縄・ふとんなど警備道具が記載されている一方で、米・麦・いも・大根・エビ・魚などの食料品に交じって、酒の記述が多数見られることや、詰所には風呂場が設けられているなど、国境警備であるにもかかわらず、かなりのんびりとした雰囲気も伝わってくるからだ。
 以上、天誅組騒動が伊賀国に与えた影響の一端を紹介した。このような警備体制は、大和国に隣接した他の村落でも同様であり、津藩以外にも騒動の情報を収集して対応したことが確認されている。             

(三重県史編さんグループ 藤谷彰)

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