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第35話 長野信良書状


長野信良書状=県史編さんグループ所蔵

長野信良書状=県史編さんグループ所蔵

長野信良書状 原形良く保つ貴重品

 今回は、県史編さんグループが所蔵する長野信良書状を紹介する。三重県が05年度に購入した「分部家文書」の中に含まれていたものである。
 分部家は、伊勢国安濃郡を本拠とした在地領主・長野氏の被官だったが、のちに織田氏、豊臣氏に仕えた。関ヶ原の合戦では東軍に属したことから徳川家康より知行が加増され、1619(元和5)年、分部光信のときに伊勢国から近江国(滋賀県)へ転封となった。以降、明治に至るまで、近江国大溝藩として存続した家である。
現在、分部家に伝来した文書群の中心は、大溝藩のあった滋賀県高島市に残されているが、県が購入した文書群は、おそらく一部が早くに流出したものだろう。
 このほか、分部光信の養父・分部光嘉(みつよし)の知行目録や、分部伊賀守嘉治(よしはる)あての老中酒井忠勝書状などが含まれている。
 文書の大きさは縦11センチ、横40.5センチ、紙を長辺で半分に切断した、いわゆる「切紙」を料紙としている。また、これ以外に、両端をひねって封とした包紙も残されている。
 中世以前の古文書の場合、裏打ちされたり、掛軸、巻子(かんす)などへ改変される際に余白などが切断されるものが多い中、この文書にはそうした形跡もなく、文書が発給された当初の原形をよく保っている点においても、古文書学的に貴重な資料である。
 紙質でも、雁皮紙(がんぴし)という比較的珍しい紙が使われている。この紙は、古文書などでよく見られる楮紙(ちょし)に比べて光沢があり、色も薄茶色で、ちょうど地鶏の卵に似ていることから、「鳥の子」とも呼ばれた紙である。当時は、楮紙に比べ高価な紙だったとされている。
 さて、発給者の長野上野介信良は、既によく知られているように、織田信長の実弟で、後に織田信包(のぶかね)と名乗った人物である。
 前述したように、長野氏は伊勢国安濃郡、現在の津市域を中心に勢力を有した在地領主で、当時、長年にわたって対立関係にあった伊勢国司北畠具教の子息・具藤を養子としていた。だが、1568(永禄11)年、信長が伊勢国に攻略した際、代わって信良が長野氏の名跡を継承した。
 文書の内容は、年号を欠いている上、関係資料もなく不明な点も多いが、おおよそ、離反した駒田某の鎮圧に関するものと考えられる。その中で信良は、近習(きんじゅ)らの昼夜の心労をねぎらうとともに、自身も来る14日には出陣するので、それまでさらに堅固に仰せつけるべきことが肝要である旨を申し伝えている。
 現在のところ駒田某の特定には至っていないが、駒田某の「別心」は、長野氏内部にも信良の家督継承を快く思っていない勢力があったことを示しており、興味深い。
 長野信良が発給した文書は現在、ほとんど残されておらず、この文書以外では、前述した滋賀県高島市の分部宝物保存会所蔵「分部文書」中にある永禄12年付の長野信良書状が知られるだけだ。「津市史」には1517(元亀2)年の文書も所収されているが、現在は所在が分からない。
 このように、三重県の歴史にとって非常に貴重な史料だが、実はこの文書は既に一度、県外に流出していた。今回、県史編さんでの資料収集過程で、貴重な資料を再び県内に戻すことができたことは幸いだった。            


 (県史編さんグループ 小林 秀)

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