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第33話 国産振興四日市大博覧会


「国産振興四日市大博覧会」の各種資料

「国産振興四日市大博覧会」の各種資料

国産振興四日市大博覧会 125万人が見たイベント

 二・二六事件が起こり、軍部の政治介入がいっそう強まってきた1936(昭和11)年の3月25日から5月13日までの50日間、四日市市で「国産振興四日市大博覧会」が開かれた。四日市港施設完成の記念事業として、国産振興・輸出の進展を目指して行われたもので、当時の四日市市一般会計に匹敵する70万円という巨額の費用が投じられた。入場者数は当初予想の40万人を大きく上回り、約125万人近くという大盛況となった。
 県史編さんグループには、この博覧会に関する絵はがき、パンフレットや実施報告書などいくつもの資料がある。これらからその様子を見てみよう。
 博覧会を記念して発行された絵葉書からは、意匠をこらしたパビリオンが並び、パンフレットに書かれたように「従来の此種計画に比し極めて斬新的!! 各地優良物産と世界的最新学術の応用展覧」の博覧会であったことがうかがえる。
 当初の見込みを上回る大成功の裏には、博覧会開催を助成する組織として結成された協賛会の活動がある。四日市商工会議所を母体に組織された協賛会には、予算総額の30%近くが充てられた。その協賛会側は「余興部の事業が博覧会中最も華やかなる部門を代表せるもの」として余興部の事業を重視し、協賛実行予算支出総額の54%を割いた。
 国際演芸場(有料)のプログラムには、「埃及人(エジプト)ハジアリーの謎の胃袋」「米国人ビーカイル嬢の空中よりの大飛込」「露西亜(ロシア)人イワンカロロフの怪力」「インディアンバーンの大危険術」「名犬の学術的実験と曲芸」と記載されている。閉会後、刊行された「国産振興四日市大博覧会協賛会誌」には当時の写真が掲載されており、多くの観客が手に汗握り、固唾(かたず)を呑(の)んで見入っていた姿が想像される。
 パンフレットの下部には、大きな鯨が描かれているが、これは、この博覧会の誘客の目玉として準備された「生きたる大鯨」が見られる「生鯨館」である。「協賛会誌」によれば、「鯨が中天高く潮を吹き上ぐる壮快なる実況を観覧に供せん」と計画され、会場海側に観覧席と鯨放泳場を建設し、和歌山県の太地町周辺の漁協と提携して生鯨捕獲を試みたのである。博覧会開会前に長さ3メートル級と2メートル級の鯨を2頭捕獲したが、輸送途中で死んだ。会期半ば過ぎに、再び2頭を捕獲輸送したが、またまた到着までに死んだので、そのままこれらを観覧に供し、4万人近くが入場したと報告されている。
 ほかにも、野外演芸場を設け、在地の芸妓(げいき)による舞踏や鯨船などの郷土芸能で大会を盛り上げ、演芸館では外国人の華麗な舞踏が演じられた。連日、これらの余興部の出し物は大好評であり、それぞれの施設の入場料が博覧会収入に大きく貢献したことは言うまでもない。
 なお前述した「協賛会誌」には、博覧会協賛会が手がけた工事仕様や契約関係を含めた詳しい記録が記されているが、そういった刊行物に加えて、最近、新しい資料が仲間入りした。元三重県庁の建築技師であった夏池春吉氏が所蔵していた建築関係資料で、県史編さんグループに寄贈された中に「国産振興四日市大博覧会」の貴重な資料が多数含まれていたのである。夏池氏は1935年ごろ、四日市市役所に移って博覧会事務局の工営部の副部長として活躍した。現在、この寄贈資料の整理作業をしているが、いくつかのパビリオンの青焼きの設計図が含まれており、外見だけでは計り知れない建物内部の細部や展示内容まで読み取れる。
 このように、県史編さんグループや博物館では、さまざまな貴重な資料の寄贈を受けることがある。それらを丁寧に整理して県民の方々に公開するとともに、寄贈された方の思いを活かし、様々な寄贈資料を、次の世代に伝えていくことが大切だ。
 

(県史編さんグループ 伊藤裕之)

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