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第31話 いまの三重県の成立を伝える文書


度会県廃合事務書類

度会県廃合事務書類

いまの三重県の成立を伝える文書 合併経て、残った県名

 今年も「県民の日」記念事業が県総合文化センターをメーン会場にして、県内各地で開催される。1976(昭和51年)3月29日公布・施行の「県民の日」条例で、4月18日を県の「県民の日」として定めている。
 その根拠は、ちょうど100年前の1876(明治9)年4月18日に旧三重県と度会県が合併して現在の三重県が成立したことによる。三重の県名の始まりは、71年11月の第2次廃藩置県によって成立した現県域の北半分を管轄した安濃津県の県庁が、翌72年3月に津から三重郡の四日市に移されたことに基づく。郡名を県名とすることが通例となっていたためである。
その後、再び県庁が津に戻っても、県名が変更されることはなかった。その理由の一つは度会県との合併話があって県名は合併時までは持ち越されたことだが、結局は変わらなかった。
 今回は、その合併時の資料を県庁文書の中から、いくつか紹介してみよう。
 まず、合併期日を示すものは太政官布告であり、4月18日付けで「度会県ヲ廃シ三重県ヘ合併」と見られ、ほかにも多くの県の統廃合がなされている。特に隣接する奈良県は、いったん廃止となり堺県となった。
この年の8月には、鳥取県が島根県に、宮崎県が鹿児島県に合併されるなど、第2次廃藩置県で3府72県だったものが、76年には3府35県となる。現在は43県あるので、今よりも少なくなっている。ちなみに43県となるのは1888(明治21)年のことで、奈良県も87年に復活していた。
 次に、合併時の状況を記載した資料は、国で編集した「府県史料」の元資料となる「三重県史稿」がある。内務省が示した「事務引継取扱規則」や5月1日から始まった引継作業は、期限いっぱいの8月8日に完了し、太政官に届け出たことが記されている。
 引継書は、79年に7冊にまとめられたが、そのうち5冊が「度会県廃合事務書類」として今も残っている。
その一つである受継件名の簿冊によると、引継いだ簿冊などの件名と冊数が月日ごとに記されており、いつ、どのような簿冊を引き継いたかを知ることができる。その内容は、実に多種に及んでいる。また、別の簿冊には、元度会県職員と三重県職員との引継に関する往復文書もつづられている。
 さらに、合併に伴い、旧度会県庁に山田支庁を設置することや、支庁の管轄する郡を定めた県の布達(ふたつ)などもある。
それによると、新しく管轄に入った旧度会県の所轄のうち、現津市の南部地域と松阪市にあたる一志・飯野・飯高郡は本庁の直轄に、他の地域は山田支庁の所属とすることが定められた。
 このように、明治期県庁文書には、現在の三重県の成立を伝える文書群が含まれている。これらの県民共有の資産である資料を長く後世に伝え、閲覧やレファレンス(文献の紹介・提供などの援助)などを通して、広く利用者に公開・提供することが求められる。
       

(県史編さんグループ 服部久士)

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