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第29話 贋金の流通状況報告書


四日市町の贋金の流通状況を示す県庁文書

四日市町の贋金の流通状況を示す県庁文書

贋金の流通状況報告書 維新直後の混乱示す 

 「幕末維新、県内には贋金(にせがね)が蔓延(まんえん)していた!」。こんな世相を物語る史料が県庁文書群の中に残されている。もちろん、これは三重県域だけにとどまらず国内全体に及ぶ現象で、誕生したばかりの明治新政府にとって、信用が揺らぐ大問題であった。そのため、贋金問題に関連する史料は全国各地に残っている。
 三重県庁に残る史料は14点である。内容は、おおまかに政府の布達類と地元での流通状況報告類や対処記録に分けることができる。いずれも1868(明治元)年から70年までのものである。
 このころ、なぜ国内に贋金が出回ったのだろうか。最も大きな原因は、戊辰戦争(1868〜69)の長期化であったようだ。参戦した諸藩が軍費を捻出(ねんしゅつ)するため、劣悪な貨幣を鋳造したことによるという。中でも贋の二分金(1両の1/2)が最も流通したと言われている。
こうした贋金は、民衆にも受け入れられていたようで、68年6月に政府が出した布告には「甚(はなはだ)シキニ至テハ両替屋私(ひそか)ニ相場相立(あいだて)売買」とある。独自の交換基準で、本物の貨幣同様に流通していたのであり、政府はこれを扱う者があれば厳科に処す旨を沙汰(さた)している。また、10月には全国の府・県・藩に対し、取り締まりを厳重にするよう通達している。
 翌年7月、政府は贋金に本格的な打開策を取った。各府・藩・県に管轄地の石高1万石につき300両の割合で贋金引替金を渡し、贋金を買い取って回収しようと乗り出した。10月までに贋金の流通員数を取り調べて報告するよう政府からのお達しであり、県庁には、度会県の流通状況を示す史料がよく残されている。中でも『明治二年巳九月 贋金書上蝶 勢州三重郡四日市』(挿図)は、四日市町(当時度会県)で確認された個人所持贋金の状況が金種まで記録された興味深い史料である。
 これによれば、四日市町で見つかった贋金の総額は3407両3分であった。このうち二分金の占める割合は99%を超える。おそらく、度会県ではこれと同様の報告を管内全域で作成させたのであろう。そうして浮かび上がった度会県内の贋金流通総額は実に2万2680両2分となった。
 この事態に対し度会県は、69年12月に贋金引替金として8679両を大蔵省から受け取り、これで贋金を3分の1の価値(6850両3分3朱余)で買い受けた。その差額の1864両余は大蔵省に返納したわけだが、3分の1という交換条件に抵抗はなかったのだろうか。
 なお、同様の調査が津藩でも行われたが、管内を確認して回るのに時間がかかり、報告期限の暫時猶予願いが出されるなど、藩役人の苦労もうかがえるところである。
 今回は、県庁文書を通して明治維新のあまり語られない三重県の姿を紹介した。県庁文書は情報の宝庫である。そこから浮かび上がる一つ一つの事実は些細なことかもしれないが、様々な視点から県庁文書に当たることが重要である。  


(県史編さんグループ 石原佳樹)

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