トップページ  > 紙上博物館 > 津藩士の日記から見た藩校

第25話 津藩士の日記から見た藩校


藩士の日記(稲葉家文書)

藩士の日記(稲葉家文書)

津藩士の日記から見た藩校 文武の修練で士気高揚

 県史編さんグループでの購入文書の中に、津藩伊賀付の藩士・稲葉小左衛門家の日記がある。全部で4冊、すべて竪帳形態で、30〜50丁ほどの冊子である。
表紙には、「侯臣要録」(こうしんようろく)「日有記」(にちゆうき)と記されている。日記の年代は、1815(文化12)年、18年、20(文政3)年、22年である。稲葉家の私的日記と考えられ、日々の生活の中で、特記するような出来事を数行書いている。 
 日記は、当時の様子を書き留めたものであり、通常、その中からは書き手の毎日の様子や心情などもつかみ取ることができる。しかし、それを利用するためには、内容が多岐にわたっていることもあり、読み手の方で項目を立てるなど分類して整理をする必要がある。
今回は、20、22年の日記の中から、津藩校に関する記事に注目して見てみたい。
「三重県教育史」によると、津藩の藩校については、藩主藤堂高兌(たかさわ)が1819(文政2)年に藩校設立を発表し、翌年3月に、伊勢国津で「有造館」(ゆうぞうかん)が、伊賀国では1年遅れで「崇広堂」(しゅうこうどう)が開かれたとある。
また、この日記によれば、有造館は「御学校」、崇広堂は「文場」(ぶんじょう)と呼んでいたようである。特に崇広堂の設立経緯やその後の活動については、伊賀城代家老日誌「廳事類編」(ちょうじるいへん)に詳しく書かれている。なお、崇広堂は一般的には「すうこうどう」と言っているが、「廳事類編」の21年2月11日に「講堂称号 崇(しゅう)廣堂と御治定」と振り仮名があり、本来は「しゅうこうどう」と称されていたことがわかる。
この時期、藩財政が逼迫(ひっぱく)する中、藩士にも分米(ぶまい、家中へ課せられていた役米)を課して負担をかける状態で、文武の修練にも事欠き、士気の衰退傾向にあった。それを打破するためには、学校を設立し、藩士を教育する必要があったのである。
稲葉家の日記にも、20年2月4日に発布された学則に相当する「覚書」が書き留められ、前述した分米を少し免除し、学校での文武修行を奨励している記事が見られる。
また、22年5月19日には、伊賀家中の津学校への留学助成の触が出された。その後も留学については「年若(としわか)の面々追々入れ替わり永久連綿(れんめん)と絶えざるように心がけるように」などの触が次々に発布された。しかし、6月18日には、伊賀家中の留学は、「一統毎度留学往来仕(つかまつ)り候義は、永続のほど覚束(おぼつか)なく、差し支えもある」ということで中止された。そして、24日には「御文場というのを止めて、『講堂』」と称するようにとの触も出された。
これらの一連の記事は「廳事類編」にも記載されているが、そこでは、単に事象がわかるだけで、前述したような留学の規定や中止理由などはわからず、この日記によって明確になったわけである。
 さらに、「崇広堂」と稲葉小左衛門との関連を拾ってみると、稲葉氏は、22年正月5日の開講に出て、21日にも「講堂開席」に出席している。4月3日には、藩祖高虎の事蹟などを収録した「聿修録」(いつしゅうろく)の講義の初めにあたるため、麻上下(あさかみしも)を着用してそれを拝聴している。これらは、稲葉氏がまだ入学前のことで、正式には8月1日に入学したこともわかる。
 このように、わずかではあるが、今回は日記から藩校と一藩士の関係を見てみた。日記はこれら以外にも多くの情報を含んでおり、今後も別の角度からの分析を行っていきたい。
                       

(三重県史編さんグループ 藤谷彰)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る