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第23話 徳川家康書状


徳川家康書状(県立博物館所蔵)

徳川家康書状(県立博物館所蔵)

徳川家康書状 伊勢国での戦功を賞す

 今回は、三重県立博物館所蔵の徳川家康書状について紹介したい。 
 文書は、縦30.7センチ、横49.5センチの紙を半折して用いた、いわゆる「折紙」で、小浜民部左衛門尉(おはまみんぶざえもんのじょう)と間宮造酒丞(まみやみさのじょう)に宛てて、伊勢国「生津」と「村松」での戦功を賞したものである。年号を欠いているが、5月5日の日付の下には、「家康」の署名とともに花押が据えられ、内容から1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いに関わると考えられる。
まず、本文書内に登場する地名について見てみよう。
「村松」は、現在の伊勢市村松町に比定される。また、「生津」については「オイズ」と読み、現在の多気郡明和町大淀付近に比定することができる。
 次に、宛所であるが、小浜民部左衛門尉は実名を景隆と言い、現在の鳥羽市小浜を本拠とした土豪であった。1572(元亀3)年ごろから武田信玄に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康に属した。伝承では、小浜氏が本貫地を離れたのは、九鬼嘉隆の勢力拡大を嫌ったことが原因であったとされている。
また、もう一人の宛所である間宮氏は伊豆の土豪で、造酒丞信高は、はじめ北条氏に属したが、後に武田氏に仕え、主家滅亡後は小浜氏と共に徳川の家臣となった。いずれも、いわゆる「水軍」として活躍したことで知られている。
 1584(天正12)年、織田信雄は、羽柴秀吉と通じたとして重臣の津川義冬らを伊勢長島城で謀殺した。これにより秀吉との対立が表面化し、信雄に味方した徳川家康と秀吉との間で戦端が開かれた。小牧・長久手の戦いである。
この戦いでは、尾張国にとどまらず、伊勢国内でも激しい戦いが繰り広げられた。特に伊勢国では、徳川方の松ヶ島城が落城するなど、羽柴方が優勢であった。そのような中で小浜景隆らは、村松・大淀に来襲した羽柴方の九鬼嘉隆勢と戦い、めざましい戦功をあげたことがわかる。
 本文書は、1595(文禄4)年と推定される7月26日付けの小浜久太郎光隆宛て徳川秀忠書状とともに、一対の掛け軸に仕立てられており、小浜家に伝来したものと考えられる。表具にはいずれも同じ葵紋の入った金襴(きんらん)の布が用いられており、恐らく徳川家から下されたものを表具の裂(きれ)として転用したのであろう。
 小浜文書としては、現在、お茶の水図書館成簣堂(せいきどう)文庫所蔵のものが知られているが、本文書については、これまで写本のみが知られてきた。この時の戦功は、小浜・間宮両家にとっても重視されていたようで、後に江戸幕府が編さんした「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)などに所収される小浜系図や間宮系図では、いずれも村松・生津での戦闘と、本文書のことが記録されている。
本文書は、1997年、センター博物館建設構想に伴う資料収集の際に原本が発見され、三重県の歴史に大きく関係するものとして県立博物館が購入し、架蔵することとなった。
 このように、原本の所在が不明であったものが、こうした機会に再発見されることがある。今回の新博物館構想でも、再発見される文書の出現に期待したい。

(県史編さんグループ 小林秀)

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