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第21話 三重鉄道敷設関係図面


三重鉄道敷設関係図面の簿冊

三重鉄道敷設関係図面の簿冊

B型タンク機関車の図

B型タンク機関車の図

三重鉄道敷設関係図面 未成の路線思い伝え

 近鉄四日市駅の高架下にある9・10番ホームからは、カラフルな色に塗られた小さな電車が、幅わずか762ミリのレールの上を車体を揺らしながらのんびりと発車している。この内部(うつべ)・八王子線は、もともとは商工業の盛んであった四郷(よごう)村と四日市市内とを結ぶために、1912(大正元)年に八王子・日永(ひなが)まで開業した三重軌道(のちに三重鉄道)がルーツである。その支線(鈴鹿支線)として、22年1月に日永・小古曽(おごそ)間が開業し、同年6月に内部駅まで延伸され、現在の内部線の姿が出来上がった。
 県史編さん室には、この内部線の延長に関する一冊の資料がある。「三重鉄道敷設関係図面」と書かれた分厚い綴(つづ)りで、16年から21年にかけての図面類である。当時の監督庁であった鉄道院(鉄道省)に出された書類に添付されたもので、青焼きの図面が丁寧にたたまれて数枚の封筒に収納されている。いずれも四日市鉄道(現・近鉄湯ノ山線)や伊勢鉄道敷設の主任技術者であった神田喜平氏の印が押されている図面であり、路線図や縦断面図(勾配(こうばい)図)、駅構内配置図、鉄橋・木橋図、車両図など多岐にわたっている。
 その中の「三重鉄道株式会社鈴鹿支線予測平面図」によれば、当初の計画は、内部から南西方向に更に路線を延長し、鈴鹿山脈の裾野(すその)、巡見(じゅんけん)街道に面する伊船(いふな、深伊沢村・現鈴鹿市)に到達するものであった。途中には、采女(うねめ)・小松(内部村・現四日市市)・下大久保(久間田村・現鈴鹿市)・和無田(わんだ、久間田村・現四日市市)・京新田(深伊沢村・現鈴鹿市)と、こまめに駅が配置されている。終点の伊船駅には貨物の積み下ろしホームや機関車・客車の車庫が並ぶターミナルとなっている。
 しかしながら、この路線は工事に着手されることなく、未成に終わった。そのあたりの事情については、鉄道院(省)文書に詳しく記載されている。22年に小古曽・内部間の営業開始をした年に「内部伊船間工事竣功(しゅんこう)期限延期」を申請し、理由として内部以遠の用地買収が進んでいないことを記している。翌年には再び竣功期限をさらに一年延長することを願い出ているが、その時は省線(後の国鉄、JR)連絡のために線路の幅を広げる(改軌)調査をし始めたので、用地買収までには至っていないと申し出ている。24年には3度目が出されているが、理由としては改軌問題に加えて、終点の伊船周辺で石灰石の採掘やセメント会社の設立計画があるために工事方法の変更の必要性をあげている。この頃、三重鉄道は低利の社債発行を行ったが、旅客収入の伸び悩みや豪雨の復旧工事があり、業績が振るわなかったようである。
 こうした再三の延期願いは結局受け入れられず、25年6月に鉄道敷設免許は失効してしまう。折しも、第一次世界大戦後の不況時の計画であり、内部川の橋梁(きょうりょう)や和無田への急勾配路線の敷設、旅客・貨物量の増加が見込めない地域への延伸に耐え得るだけの企業財力はなかったものと思われる。
 また、当初の計画通り、伊船まで開通していたならば、後世のモータリゼーションの発展のなか、輸送力に限界のある軽便規格では、やはり廃線になっていたかもしれない。
 いずれにせよ、未成の路線であったにもかかわらず、行政文書が廃棄されることなく、保管されていたおかげで、当時の地域発展を願う人々の果敢な姿を見ることができるわけである。新博物館の公文書館機能として、こうした人々の思いを伝える資料を大切に保存していく必要があろう。    

(県史編さんグループ 伊藤裕之)

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