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第17話 地租改正反対一揆伝える県庁文書


「暴動件進達往復」ほか(三重県所蔵)

「暴動件進達往復」ほか(三重県所蔵)

地租改正反対一揆 伝える県庁文書 新政府動かした三重県

 1876(明治9)年12月19日、前夜から櫛田川の河原に集まっていた1000人余りの農民が警官隊と衝突し、その後、参加人数を増しながら松阪へ押し寄せ納税窓口であった区扱所(くあつかいじょ)や三井銀行などを焼き打ちした。今から132年前、「伊勢暴動」と呼ばれる地租改正反対一揆の始まりである。
 明治政府は、地価に基づく統一的な税制を確立し、国税収入を安定させるため、73年に地租改正法を公布している。地租は地価の3%、金納とされ、地価の算定作業の諸費用は地元負担が原則であった。改正作業が遅れていた度会県では、75年に米価を一石につき5円19銭と定めて地租を算定していた。76年4月には度会県と旧三重県が合併し、現在の三重県が誕生する。この年の米相場は石3円50銭前後に下落したが、旧度会県では75年の米価の基準のまま納税額が決められていた。 さらに夏の大雨で櫛田川の堤防が決壊するなど、県南部は不良米しか収穫できない状況となり、米納や地方税軽減の請願が幾度か行われた。県は対応策を取るが、その意向が誤って伝わったり、区長の対応への不満があったりして一揆となった。このことは、県庁文書にも記されているが、地元で保存されている戸長などの資料群にこの一揆の関連文書が多く含まれており、より詳細なことがわかる。
 明治期の県庁文書は7300点余あり、そのうち地租改正反対一揆に関連するものは、報告や連絡文書、鎮撫(ちんぶ)・罹災(りさい)・被害状況、取調関係など223点に及ぶ。
 暴動発生4日目の22日、県庁内に鎮撫係が設置され、一揆の経過や状況をまとめている。「暴動件進達往復」の簿冊には、被害・手当等の一覧表とともに内務省に提出される「庁中日誌撮要」が綴(つづ)られている。この文書は、後に衆議院議員にもなる立入奇一(たちいりきいち)が地租改正係から鎮撫係に配属されて記したものであり、一揆の発生日から年末までの動向がまとめられている。
 12月18日夜に始まった一揆は、各地で農民が集会を開いたり、打ちこわしの行動に出たりした。特に北勢地域で激しさを増し、愛知県・岐阜県にまで拡大していった。このことから、最近では「東海大一揆」とも言われている。26日には、岩村県令から全県鎮静に至ったので安堵(あんど)するよう県民に布達が出されている。
 三重県での一揆に前後して茨城県や堺県(現奈良県)でも反対の一揆が起き、衝撃を受けた明治政府が翌年に地租率を2.5%に引き下げたことは教科書でも取り上げられており、よく知られている。
明治期の県庁文書は、近代の三重県を伝える県民共有の資産である。これらの資料を長く後世に伝え、閲覧やレファレンスなどを通して広く県民に公開・提供するのも公文書館の機能の一つである。現在、公文書館機能を一体化した新博物館建設計画が進むが、明治期の県庁文書をはじめ、記録資料としての公文書の重要性にも注目したい。

(県史編さんグループ 服部久士)

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