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第14話 全国に広まった伊勢暦


伊勢暦(県立博物館蔵)

伊勢暦(県立博物館蔵)

全国に広まった伊勢暦 土産として多数配布

 年末にはまだ少し間があるが、書店や雑貨屋の店頭には来年のカレンダーが並び始めた。例年、年の瀬にかけて多くの商店や会社のカレンダーが各家庭に届けられ、新年元旦から1年間使用される。昔も今もカレンダー=暦(こよみ)は日常生活の必需品である。
 木版印刷が発達した江戸時代には太陰太陽暦(旧暦)の暦法をもとに各地でいろいろな暦が出版された。その中で、最も多数出版され普及していたのが、伊勢神宮のお膝元である山田・宇治でつくられた伊勢暦(いせごよみ)である。
 県立博物館にも江戸時代後半の1776(安永5)年から1872(明治5)年までの73冊と、巻物状に再装丁された1804(享和4)年から64(文久4)年の61年分の伊勢暦がある。
 伊勢暦は、木版刷りの暦を折り畳んで表紙を付けたコンパクトな折本形式のものがほとんどで、折りたたんだ状態での寸法は縦30センチ弱、横9センチ前後である。冒頭に暦日の吉凶凡例などを記し、続く正月から十二月までの暦には、日ごとの暦注欄に節季やその日の吉凶のほか、さまざまな事項が書かれている。特に、農事に関する記述は当時の農家にとって農作業の時期を決めるために欠くことのできない情報として重要視されたという。
 さて、伊勢国における暦つくりの歴史は古く、中世から飯高郡丹生(現在の多気郡多気町丹生)で丹生暦と呼ばれる暦が刊行されていた。この暦は、江戸時代にも紀州藩の認可を受けて紀伊・伊勢国の同藩領内で販売され、紀州暦とも呼ばれた。
 「伊勢暦雑記」によれば、伊勢暦の歴史は江戸時代前期の1631(寛永8)年に山田の森若大夫が初めて暦を出版したことに始まる。その頃の伊勢暦は丹生暦に類似し、出版者である暦師も2人が確認されているに過ぎない。その後、暦師は急速に増加して、江戸時代後期の1753(宝暦3)年には山田20人と宇治1人の計21人となったと考えられている。
 出版部数も非常に多くなり、享保年間(1716〜35)には毎年200万部が出版され、全国で配られた暦の約半数を占めていたともいわれている。
 また、この頃には金箔を押した豪華な外装のものから簡素なものまで多種類の伊勢暦がつくられた。
 当館所蔵の伊勢暦にも箕輪主膳、瀬川舎人、佐藤伊織、村松左京、山口右兵衛などの暦師の名がみられ、濃紺地の堅い表紙に金泥で鶴亀松の吉祥模様を描いたものから、紺色や黒色の表紙に年号を印刷した紙片を貼り付けただけのものまでさまざまな種類がある。
 これほど大量に印刷され、また種類も豊富な伊勢暦は、伊勢神宮の御師やその手代が、毎年定期的に将軍・大名から村々の農民までの各地各層の旦那廻りを行う際に、神宮の御祓札に添えて届ける伊勢の土産の一つとして全国に運ばれ配付されたのである。また、各地の人々にとっても、生活の必需品として最も心待ちにしていたものであったに違いない。
 このように、江戸時代、伊勢暦は伊勢から全国に向けて情報を発信し多くの人々の生活の基準となった出版物として、人々と伊勢をつなぐ“伊勢ブランド”の主要商品だったのである。                       

(三重県立博物館 杉谷政樹)

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