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第7話 北条義時の書状


北条義時書状(県立博物館所蔵)

北条義時書状(県立博物館所蔵)

北条義時の書状 伊勢国曽称荘をめぐって

 今回紹介するのは、三重県立博物館が所蔵する北条義時(ほうじょうよしとき)書状である。
 料紙の大きさは、縦33.7センチ、横47.5センチである。上部には湿気によると見られる破損があり、補強のため全面に裏打ちが施されているものの、日付の下の署名の裏には、義時自身が据えた花押が、うっすらと確認できる。
 北条義時と言えば、鎌倉幕府二代目の執権(しっけん)で、1221(承久3)年、後鳥羽上皇を中心とした倒幕軍と戦った、いわゆる「承久の乱」に勝利し、鎌倉幕府を全国政権へと押し上げた人物として知られている。
 文書の内容は、京都の醍醐寺が訴えていた寺領荘園4カ所について、寺の訴えどおりに処理するよう申し渡したものである。日付の肩には、後筆ではあるが「承久四年」とあり、先述の承久の乱の翌年のものであることがわかる。恐らく、鎌倉幕府の裁許状(判決文)に添付された「添状」(そえじょう)であると考えられる。
 醍醐寺に残された関連文書によると、同じ承久4年正月付けで、醍醐寺領である荘園4カ所について、地頭職の停止と、荘園経営に対する新たな不法を禁ずるよう求めた訴えが醍醐寺より出されており、本文書はそれに対応したものであることがわかる。その、醍醐寺領4カ所の荘園の中に、伊勢国曽祢荘(そねのしょう)が含まれていた。
 曽祢荘は、現在の松阪市市場庄町から中ノ庄・上ノ庄町にかけての、今も「米(よね)ノ庄」と総称されている地区と、隣接する久米町一帯に所在した荘園である。地名に「〜庄」と付くのも、荘園が所在した名残である。
 また曽祢荘には、松崎浦一帯の海浜部も含まれていた。このことは、平安時代の末期、「三日平氏の乱」で知られる平信兼(たいらののぶかね)が曽祢荘の預所(あずかりどころ)に任じられた際に提出した1166(仁安元)年付けの請文に、預所が負担すべき荘役として、海苔(のり)や若布(わかめ)などの海産物が数多く見えていることからうかがい知ることができる。なかには、「心太」(ところてん)などの加工品まで挙げられており、当時、周辺で製産されていたこともわかり興味深い。なお、「預所」とは、現地で荘園の経営にあたる荘官のひとつである。
 それでは、承久4年正月付けの訴状から、本文書が発せられた経緯を、もう少し詳しく見てみよう。鎌倉幕府を開いた源頼朝が、諸国の荘園に地頭を置いたことはよく知られている。
 この時は、東国の荘園が中心であったが、曽祢荘では首藤経俊(しゅどうつねとし)が地頭に任じられたようである。それに対して醍醐寺は訴訟を起こし、結果、頼朝の証文を獲得して地頭の不設置に成功している。しかし、承久の乱を契機として、本間実茂(ほんまさねしげ)という人物が再び地頭に任命されたことから、今回の訴訟に至ったものである。
 承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、地頭の設置を西国の荘園にも広げていった。これを「新補地頭」(しんぼじとう)と言い、本間実茂の地頭任命もその流れに沿ったものである。しかし、本文書の内容から、醍醐寺は再び地頭解任に成功したようである。
 曽祢荘は、その後も、醍醐寺の主要な荘園として、室町時代には伊勢国司北畠氏一族が代官を務めるなど、戦国期に至るまで存続した。    (

県史編さんグループ 小林 秀)

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