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員弁郡の新田開発−望まれる詳細な現地・史料調査


写真  いなべ市に残るマンボ(『大安町史』より)

写真  いなべ市に残るマンボ(『大安町史』より)


 先日、休暇を利用して長野県佐久市の「五郎兵衛記念館」を訪ねた。この記念館は、江戸時代初期に市川五郎兵衛が蓼科山(たてしなやま)山中の湧水から全長20`に及ぶ用水を開鑿し、新田開発を行った村の歴史を永く後世に伝えようと、1973(昭和48)年に設立されたものである。当時は、人口6,000人ほどの北佐久郡浅科(あさしな)村であったが、新田開発関係の古文書類が学習院大学から返還されたのを機に村議会でその設立が決まった。運営は、財団法人・信州農村開発史研究所を組織して当たることとし、初代所長には元立命館大学教授の奈良本辰也氏が就任されたという。以後、古文書の整理・解読、展示や機関誌『水と村の歴史』の発行、用水の見学会開催などの活動が続けられている。
  最近では、こうした新田・用水・溜池開発に関する遺構や史料を保護していこうという動きが全国各地で見られる。大阪府大東市の平野屋新田には、新田遺構とともに江戸時代の会所が残っていて、その保存運動が幅広く展開された。昨2007(平成19)年6月に松阪市で開かれた文化財保存全国協議会でも、関係者が保存を訴えたが、願いもむなしく、本年1月には重機によって解体されてしまった。
三重県では、多気町に江戸時代前期築造の県内最大の五桂池があるが、地域の人たちは「ふるさと村」として特産物販売などの地域活性化や景観保護とともに、地域に残る古文書類を整理し、目録作成などにも取り組まれている。
また、他の地域においても、江戸時代には多くの用水・溜池や新田開発が行われた。中でも、津藩の西島八兵衛や加納直盛父子が行った雲出井(現津市)と美旗新田(現名張市)は有名であるが、桑名・員弁郡には「新田」の付くの地名が多く、これらの関係史料や遺構の残存状況が随分気になっている。
  ちなみに、1834(天保5)年の「伊勢国郷帳」で見ると、干拓地開発の多い桑名郡では郡内総村数169か村のうち90か所に新田が付く。員弁郡では、それには及ばないが、大仲新田(現桑名市)、一色・六把野・八幡・酉之新田(現東員町)、畑・大泉・笠田・松名新田(現いなべ市員弁町)、宇賀新田(同大安町)、平野・千司久連(せんじぐれ)・大辻・京ケ野新田(同北勢町)、志礼石(しれいし)新田(同藤原町)と、106か村中15か所があげられる。割合こそ少ないものの、これまで水がなくて耕地化できなかった高台の開発で、用水の掘鑿や原野の開墾など、多くの困難を伴った。
  そのためか、1907(明治40)年発行の「三重県事業史」にも、「志礼石新田開発者椙山佐源治氏」「新井水開通者藤田平左衛門氏(六把野・大仲新田等)」「林杢兵衛氏の千司久連野開墾」「二井家の土木事業(笠田新田)」「故伊藤勇吉氏の開墾及び水利事業(京ケ野新田)」「川瀬助右衛門氏と二之瀬村(千司久連・京ケ野新田)」「正木嘉兵衛氏の開墾事業(大泉新田)」と、員弁郡内の新田開発事績が他を圧倒する形で紹介されている。それほど、地域の人たちが江戸時代の新田開発に恩恵を感じていたと言える。
さらに、近来の『町史』編さんでも、これらの新田開発については、かなりのページ数を割いて記述されている。やはり、地域にとって新田開発の歴史は重要なことであった。特に、用水を確保するために掘られた横井戸「マンボ」(「間風」あるいは「間歩」と記される)」が、今も多く残存し、地域の生活と大きく関わっているようである。
  マンボとは、地表から2〜10b下にトンネル式に横穴を素掘りしたもので、そこに集まる地下水を農業用水などに利用した。この地域の大きな特徴で、鈴鹿山麓には約300ものマンボがあると言われているが、全体的な詳細分布調査は行われていない。それに、掘られた時期も様々で、いつ誰が掘鑿したのか分かっていないものが多いようである。また、それぞれの新田開発についても、まとまった史料調査は実施されていない。
  江戸時代の新田開発も、その後の耕地整理などで大きく姿を変えているが、残存する用水・マンボや史料によって様相を知ることができる。今後、各地域での詳細な現地調査と史料調査の一体的な取組みを期待いたしたい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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