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途上国支援 世界で活躍―元ルワンダ中央銀行総裁服部正也


2冊の著作

2冊の著作


 アフリカには50を超す独立国家があるが、その多くは発展途上にある国で、政治経済の混乱、飢餓や貧困など負の要因の大きいニュースが我が国の報道でも時折見受けられる。政府開発援助(ODA)をはじめとする国際支援も国民大衆の間にまで十分に浸透していないとの指摘も多い。
 ここで紹介する服部正也は、四日市市出身の経済・財政・国際支援の専門家である。1965(昭和40)年、彼は日本銀行外国局渉外課長を務めていたが、国際通貨基金(IMF)の要請を受け、独立間もないルワンダ共和国の中央銀行総裁として派遣され、経済再建計画の立案・通貨制度の改革に努めた。同国の疲弊した経済の立て直し、慢性化した国際収支の改善に奔走した様子は、72年度の第26回毎日出版文化賞を受賞した『ルワンダ中央銀行総裁日記』に詳しく述べられている。当初1年間の予定が、カイバンダ大統領の絶大な信頼を得て結局6年間も在任し、同国の経済発展の基盤を確立した。
 彼は最大限の賛辞を受けて、71年に同国を去ったが、ルワンダ経済の回復により、一躍彼の名前は世界に聞こえることになった。服部は、後に「先進国の制度をそのまま移入するのではなく、ルワンダ国民は何を望んでいるのか、そのために官僚は何をしなければならないのか、つまり、国民の目線で考え、国民に直接聞き、仕事を進めたことが成功につながった」と回顧している。この国での経験が彼のその後の途上国支援の考え方の根底となったことは確かだろう。
 服部の略歴をみると、1918(大正7)年、四日市で生まれた。幼くして父親の勤務の関係からロンドンで7年、上海で3年間を過ごし、帰国後は旧制富田中学校に入学した。今の四日市高等学校の前身である。そして、今度は長崎県へ転居し、旧制大村中学校に転入、その後、第一高校から東大法学部を卒業した。海軍士官としてラバウルで敗戦を迎えたが、語学に堪能なことからオーストラリア軍との連絡将校やラバウル戦犯裁判所特別弁護人を務めた後に復員し、日本銀行に入行した。
 ルワンダから帰国後は日本銀行に復職したが、1年後、今度は世界銀行(国際復興開発銀行)に出向、最後は日本人初の世界銀行副総裁を務めた。83年に同行を退官後は発展途上国支援のアドバイザーとして世界を奔走した。1999(平成11)年没、享年81歳であった。遺著に『援助する国 される国』がある。
 この稿を書くにあたって、彼に関する資料を探したが、2冊の著書以外にはほとんど見当たらなかった。東京の駐日ルワンダ大使館にも尋ねてみたが、広報担当官は「服部正也氏は当国としてもたいへん重要な人物であるが、残念ながら、その後の内戦などで彼に関する資料は散逸してしまった」との回答であった。
 三重県時代を知る手がかりになるような資料が見つかればと思うのだが、略歴を見てもわかるとおり、彼は三重県で多くの足跡を残したというわけではない。幼少の頃から海外生活が多く、社会人となってからも国際支援に関するエキスパートとして活躍していることをみれば、自然な成り行きかもしれない。しかし、本県を代表する国際的知識人の一人であることに違いはない。様々な分野で活躍している著名な、あるいは隠れた存在の三重県人の紹介や資料の収集も県史編さん事業の大切な一面である。(県史編さんグループ 田中喜久雄)
ルワンダ共和国  赤道直下、アフリカ中央部東寄りの内陸国。1961年ベルギーから独立、共和制を採る。首都はキガリ。人口約800万人、面積約26,300q。なお、1990年〜94年に内戦が起こった。国連の調停により停戦合意に達したが、この間に100万人を超える国民が虐殺されたという。この非人道的行為に対し、ルワンダ国際刑事裁判所が設置され、現在も審理が続いている。最近、日本でも上映された映画「ホテル ルワンダ」は、国内対立の様子を如実に伝えている。

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