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伊勢湾台風で一部露出―月出の中央構造線露頭地


月出の中央構造線露頭地

月出の中央構造線露頭地


 今回は、地球の歴史に関する三重県の見どころ、松阪市飯高町月出の中央構造線露頭地について述べてみよう。
 中央構造線とは、日本列島を九州から関東まで約1000qも続く横ずれの大断層帯のことで、明治期に来日したドイツの地質学者E・ナウマンの調査研究によって知られるようになった。断層の始まりは、まだ日本列島が形づくられる以前の中生代白亜紀後期(約8000万年前)まで遡(さかのぼ)るという。構造線を境に北と南では地質構造が大きく異なり、断層山脈や褶曲地形あるいは破砕帯を浸食して流れる河川がよく発達している。ランドサット衛星からの写真を見ると、愛媛県の佐多岬半島から四国山地、吉野川、和歌山県の紀ノ川にかけてほぼ東西に一直線の線が走っているように見える。これが宇宙から見た中央構造線である。九州地方と中部以東は新生代以降の複雑な地殻変動が重なって衛星写真でも見えにくくなっているが、地表調査では、紀ノ川最上流部から高見峠を越えて松阪市飯高町月出〜同飯南町粥見〜多気町五桂付近を通り、伊勢湾口を横断して豊橋付近から天竜川沿いを北上、途中、フォッサマグナ(新生代の地質構造線/ナウマンの命名)で断ち切られるが、諏訪湖付近から北関東を経て太平洋の海底に延びていることがわかっている。
 松阪市街から国道166号線を西に向かって櫛田川沿いに車を進めると、道路の両側には茶畑が広がっている。この付近は伊勢茶の生産が活発な地域の一つで、飯高出身の「茶業王」大谷嘉兵衛の活躍を思い起こさせる。所々には旧和歌山街道の面影の残る家並みと旧道が見られ、波瀬本陣屋敷の少し手前、桑原トンネルの脇を北に折れて国道を離れると月出集落に入る。さらに、林道を約6q進み、案内板に従って山道を少し歩くと通称ワサビ谷の斜面で明らかに異なる地層の大規模な露頭が見られる。これが中央構造線の露頭で、高さ80b×幅50bほどの範囲で山の斜面が大きく崩れており、明らかに色の違う地層が観察できる。向かって左側が領家系(日本海側)の変成岩層、右側が三波川系(太平洋側)の変成岩層で、約60度の角度で直接接している。超高温・高圧の状態が長年月続くと地層の界面は変質し、脆(もろ)くなって岩屑帯となっている様子がはっきりとわかる。
 『三重県史』別遍(自然)が刊行されたのは1996(平成8)年3月で、月出の露頭に関する資料を採録することはなかったが、自然系の分野とは別の方面から少し調べてみた。発見の経緯などはあまり明らかではないものの、1959(昭和34)年の伊勢湾台風に伴う崖崩れによって露頭の一部が現れた(写真の右肩部分)のが最初とされる。しかし、下半は崩れた土石で埋もれたまま見過ごされてきた。
 90年代になって、これを中央構造線の露頭であると見抜いたのは諏訪(すわ)兼位(かねのり)名古屋大学名誉教授ら地質学研究者たちだった。一方、櫛田川上流部での治山治水事業が進む中で、県内外の研究者や教育界から学術的にも貴重な月出露頭の保存について県や町に提言されるようになった。95年度から3か年計画の県営治山事業で、露頭下部の崩れた土石を除去してその残土で観察広場を造成し、崖面の擁護壁を建設するなどして治山と保護の両立を図った工法を進めた結果、露頭が全面に見られるようになった。97年、このことが学会誌「地質学雑誌」に発表されて月出の露頭は全国にも知られるようになった。
 当時の飯高町の広報活動などもあって、月出の露頭は、中央構造線の基本的な姿が観察できるところとして広く知られる存在となり、2002(平成14)年には国の天然記念物に指定された。今年度は「日本の地質100選」にも選定され、今後は野外観察授業の場やジオパークとして活用が進むものと期待される。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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