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古畑種基 法医学と「古畑鑑定」


写真解説  旧明成小学校跡地に建つ古畑博士の顕彰碑

写真解説  旧明成小学校跡地に建つ古畑博士の顕彰碑


 今回は血液学・法医学の権威である文化勲章受章者古畑種基(ふるはたたねもと)を紹介しよう。
 彼は 1891(明治24)年南牟婁郡相野谷村(おのだにむら)平尾井(現在の紀宝町平尾井)で、地元の開業医古畑虎之助・志う夫妻の次男として出生。幼少の頃から学力優秀で、地元の明成尋常小学校(現在は相野谷小学校に合併)から、叔父の住む和歌山市に寄留して旧制和歌山中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学医学部に入学。1916(大正5)年同大学を卒業後は医学部助手に採用され、血液学や法医学の研究に邁進した。ドイツ留学から帰国後、金沢医科大学教授に就任、法医学教室を開設した。1936(昭和11)年に東京帝国大学医学部法医学教室主任教授に迎えられた。52年に東大を退官するまでの間、後進の指導に当たるとともに、血液学・遺伝学・法医学等の新しい分野の研究に勤しみ、海外で研究成果を発表することも増え、古畑の名声は世界に広がった。
  50年、古畑は、岩手県平泉の中尊寺学術調査団の一員に加わり、金色堂に納められた奥州藤原氏四代のミイラの血液型・指紋・歯型など人類学・医学分野の調査を担当した。ちなみに藤原秀衡の体躯は当時としては大柄で身長は160センチ以上あり、血液型はAB型であったという。
  また、戦後の犯罪捜査が自白主義から証拠主義へと大きく方向転換し、司法当局からの要請で難解な事件について法医学的見地から司法解剖や証拠物件の科学的調査を求められることが増加した。特に古畑を有名にしたのが「下山事件」の鑑定結果であった。
 下山事件とは、49年7月5日、日本国有鉄道初代総裁下山定則が出勤途中に行方不明となり、翌日未明に常磐線綾瀬駅付近で轢断死体となって発見された事件である。当時、国内では極度なインフレ経済の立て直しが急務で、超緊縮財政策いわゆるドッジラインを実施、政府は全公務員中28万人、国鉄では10万人の人員整理を発表した。49年1月の衆議院選挙で吉田茂率いる民主自由党政権が誕生したが、革新政党傘下の諸団体は人員整理に頑強に抵抗、倒閣運動を全国に展開した。下山総裁は人員整理の最高責任者として国鉄労組と厳しい対立状況にあった。
  このとき、下山総裁の遺体の司法解剖の指揮を執ったのが古畑であった。遺体には生体反応が無かったことなどから、「死後轢断」と判定した。つまり死後に列車に轢かれたことになるから、他殺説の有力な根拠とされた。大手報道機関も他殺=謀殺説・自殺説に分かれて取材を続けそれぞれ論陣を張った。三鷹事件、松山事件と脱線転覆事故が立て続けに発生したこともあり、国民の関心はいやがおうにも高まった。いわば、戦後の国家再建を巡って国論が二分する中での「古畑鑑定」であった。結局、真相は不明のまま捜査本部は解散、15年後に時効が成立し、事件は未解決のまま現在に至っている。後に、古畑は下山事件について「・・・それまで死体を2千例以上調査した実績の上での死後轢断という判定には絶対の確信を持っている・・・」と詳しく述べている。
  東大退官後は東京医科歯科大学教授、日本犯罪学会会長、日本人類遺伝学会会長、科学警察研究所所長等を歴任。56年文化勲章受賞、75年逝去、享年83歳であった。
  今、県内でも古畑種基の名前を知る人は少なくなったが、紀宝町のふるさと資料館には博士の業績を示す資料や写真が展示されているし、旧明成小学校跡地には博士の顕彰碑が建てられ、碑の左下には「青少年よ 博士に続け」と刻まれている。今一度、郷里の埋もれた歴史や文化を見つめる機会を得たいものだ。

(三重県史編さんグループ 田中喜久雄)

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