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陳情に残る農家の苦悩―旧倭村 終戦直後の供出米


今も残る旧倭村役場の建物

今も残る旧倭村役場の建物


 稲刈りの時期。今年の夏は特に暑く、乳白米の発生など、異常高温による稲作の障害が問題となった。それでも、全国の生産高はさほど変わらず、大きな災害がない限り、米は余り気味となるであろう。米の生産とその消費は、品種改良や生産技術の向上のほか、食生活の変化などが原因で、第2次世界大戦後、高度経済成長期を経て大きく変化してきた。しかしながら、終戦直後の食糧難時代の「供出米」については生産農家への圧迫も強く、米をめぐって今では考えられないほどの農家の苦悩があった。
 そこで、一志郡倭村(現津市白山町)の役場文書をもとに、その状況を見てみよう。
 まず、「供出」とは一定の取決めで政府に売り渡すことで、県・郡・市町村の段階ごとに食糧調整委員会が設置されて供出数量が決定された。最終的には集落単位への割当てが行われ、各農家はそれを目標に米を供出したのである。1947(昭和22)年産米の県供出米割当て決定に伴って、GHQ(連合国軍総司令部)三重軍政部は、「日本再建の大部分の責任が農家にある。もし農家が供出を完納せず、一部を闇市場に流すために残し置く時には経済復興が阻害される。何故ならば、都会に住む人が空腹では仕事の能率があがらず、生産が限定される」と指摘し、供出米の推進を強調した。
 当時の倭村は世帯数446戸・人口2,236人で、のちに白山町となる村々の中では最も人口規模の小さい村であったが、2,838石6斗の供出米が割り当てられた。その内訳は、村の米生産見込量4,675石9斗から種子用32石8斗と飯用1,804石5斗の保有米を除いたものであった。飯用米の積算は、47年2月発行の「村報やまと」第1号の記事で見ると、46年度の基準を「1才〜7才 1日量2・0合、8才〜15才3・5合、16才以上4・6合、平均4・0合」としている。現在と比べ随分量が多いが、副食の乏しい時代で、主食の占める割合が大きかった。
 割当ての根拠となる村の生産見込量は、水田面積193町3反に反収2石4斗という、きわめて高い収量を単純に乗じて、それに陸稲・雑穀の36石7斗を加えたものであった。また、前年46年産米の割当ても村の生産量を4,419石と見込んでいたが、実収は3,900石余で、500石ばかりの開きがあったという。こうした高い生産見込量では、たとえ保有米を差し引いても供出割当量が多くなり、農家の負担が大きかった。
 そのため、倭村では47年産米の割当てが決定される前に、村長はじめ村会議員や村食糧調整委員がこぞって署名して一志郡の食糧調整委員会に陳情書を提出した。その下書きが「重要書類 村長手控」という簿冊に綴られている。陳情は、周辺の村々に比較して割合が高く、農家の台所は涙ぐましい現状であること、耕作面積から畦畔を除き生産見込みを計算すること、反収が郡内第2位の高い収量で積算されているが、谷間の水田も多く実収量と隔たりがあるので基準を是正すること、さらに、旱害や降雨・旋風などの稲作被害を考慮することなどが主な内容で、農家の苦悩が切々と記されている。これを受けて、47年10月には郡食糧調整委員会の稲作検見が行われたが、ほとんど割当てが減らされることはなく、前述したとおり2,838石6斗と決定された。逆に前年に比べ240石あまりの増加で、倭村は年末までに約2,400石を供出した。供出率は約85%の郡内平均レベルで、更に供出せよとの一志地方事務所長の督促もあった。その後、完納されたかどうかは記述がなく明確でないものの、おそらく農家が努力し供出率を高めたものと思われる。なお、同簿冊には調整に悩んだ委員の辞職願や供出に納得した農家の声明文などが綴じられており、終戦直後の農村では米の供出が一大重要事項であったことがわかる。
 この簿冊や「村報やまと」は、今も残る旧倭村役場の二階に長く保存されてきた。他の明治期以降の役場文書も多数残存していたので、一括が白山町の文化財に指定され、今は津市文化財として引き継がれている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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