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梵実態の解明が重要―県内死者21人 南海地震


南海地震震度分布図(「南海道大地震調査概報」より、震度は1946年当時の基準)

南海地震震度分布図(「南海道大地震調査概報」より、震度は1946年当時の基準)


 2007年4月15日12時19分頃、三重県中部を震源とする地震が発生した。マグニチュード5・4で、亀山市では震度5強、鈴鹿・津・伊賀市で5弱を観測した。亀山城の石垣の一角が崩れ、津市中村町など地震の影響と見られる亀裂も確認され、負傷者も何人かあった。
 三重県の地震と言えば、明治時代以降では1944(昭和19)年12月7日の「東南海地震」が有名で、大きな被害があった。今後の地震対策を考える上でも、その実態解明が重要であり、「発見!三重の歴史」でも2回ほど東南海地震を取り上げて、限られた資料から被害状況や救済・復興策などを見てみた。
 次に、東南海地震2年後の46年12月21日午前4時19分頃に起こった地震も三重県に大きな影響があり、その実態解明が必要である。この地震は、「南海地震」または「南海道地震」と言われ、マグニチュードが8・0で東南海地震の7・9よりも強いものであった。震源地は潮岬南々西50qの沖合で、和歌山県や高知・徳島県で被害が多く、全体では死者数が1400名以上に及び、東南海地震の約1200人を上回った。
 それでは、三重県の被害状況はどうであったのか。翌47年5月に中央気象台がまとめた「南海道大地震調査概報」によれば、県内で死者21名・負傷者35名があった。当時の警察署管内別に見ると、死者数は松阪11名、宇治山田5名、四日市3名で、御船(現・紀宝町)署管内2名である。負傷者は津15名、宇治山田5名、尾鷲・御船各4名、四日市・久居各3名のほか、松阪1名があげられている。それぞれの死傷の原因はわからないが、松阪市の市街地で家屋全壊がいくつかあり、宇治山田市(現伊勢市)の河崎町では約8割が大修理を必要とするほど家屋の損傷が激しかったようである。また、津市でも岩田川の河口沿いに倒壊家屋が多く見られ、県全体では全壊・半壊を合わせて約240棟に達した。
 さらに、津波による県内の流失・浸水家屋は約1500棟あり、特に南輪内村の曽根や賀田(現・尾鷲市)では最高波高が4・5〜5・5mにもなり、流失家屋があった。それに、錦町(現・大紀町)、島津・吉津村(現・南伊勢町)でも浸水家屋が多く見られたが、志摩地域では津波の規模も小さく、最高波高1.0〜2mであった。
 このように、地域の位置や地形・地質などによって、地震の伝わり方や津波の発生状況が異なる。そして、必ずしも震源地に近い箇所の被害が大きいわけではなかった。三重県よりも震源地から遠い岐阜県で倒壊家屋が約1300棟、おおむね5・5倍の被害があり、震源地から離れているからと安心はできない。先の東南海地震でも、遠く離れた長野県諏訪湖周辺で家屋が100棟ほど倒壊し、1名の死亡者と数十名の負傷者があった。
 地球の複雑な構造によって、こうした状況が起こるわけで、一層の専門的な調査研究が進むことを期待するが、ここでもう一つ、南海地震に特徴的な現象を紹介したい。それは地震に伴う発光現象で、地震発生前・地震最中・地震後と発光時期はまちまちであるものの、全国各地で確認されたらしい。津市では、前日の20日21時頃、すなわち地震発生の約7時間前であった。その様子は「虹の足の様に立昇り、…その幅は三間位で百燭光位明るく、火事のようで…約15分間」続いたという。「調査概報」には他の目撃記録も収録されており、前年の45年1月13日、東南海地震後約1か月に発生し愛知県に大被害をもたらした「三河地震」でも発光現象が確認されている。しかし、まだまだ近代的な観測実例が少なく、そのメカニズムは解明されていないようである。いずれにしても、地震は地球の問題で、いつどこで起こり、どこに被害が出るかわからない。害を受けない対策や発生した際の対応を常に心掛けておくためにも、歴史的な地震の実態解明が重要ではなかろうか。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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