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孫、来訪伝記を復刻―戦前の宮内大臣・中村権次郎の故郷


中村雄次郎肖像

中村雄次郎肖像

甲子祠之碑

甲子祠之碑


 2年半ほど前、県の東京事務所に「伊勢の波瀬村ってどこですか?」という問い合わせがあり、祖先の故郷だということから県史編さんグループにその話が回ってきた。伊勢には一志郡波瀬村(現・津市)と飯高郡波瀬村(現・松阪市)の2か所があるので、更に話を聞くと、鎌倉市在住の中村さんからの質問であるという。そこで、「もしかして中村雄次郎の御子孫では?」と尋ねてみると、そうだという返事が帰ってきた。それならば、一志郡の波瀬村である。
 戦前、1920(大正9)年に宮内大臣に任じられた中村雄次郎のことは、地元ではかなり知られている。既に「一志町史」などにも取り上げられ、1916年に波瀬村に戻った雄次郎から学校に500円もの寄付があったことも記されている。ただ、孫に当たる鎌倉市の中村さんは、雄次郎の故郷のことが全く分からず、一度訪れてみたいというものであった。回答後しばらくして、中村さんが来県されたので、波瀬の位置や中村家に関する資料について種々説明するとともに、現地の案内を当時の一志町教育委員会にお願いした。波瀬には、中村家の事績を知る足跡や伝承などがいくつか残されており、以下、簡単に述べる。
 江戸時代の波瀬村は和歌山藩領に属し、中村家は代々地士を相続し、時には大庄屋も務めた。特に雄次郎の曽祖父・中村与三右衛門進正は、「寛政(1789〜1801年)」の頃、村内が洪水や旱天の災いに悩まされていたため、藩の役所に減税を願い出たり、開墾に努めたりした。それによって、波瀬村は食に苦しむ者もなくなったと言われ、村民たちは、進正が1809(文化6)年に没した後の1839(天保10)年、恩に報いるため「甲子祠之碑」を建てた。写真の石碑であるが、以前は中村家の屋敷地にあったようであるが、今は上出公民館の前に移設されている。なお、「甲子祠」は、進正の生まれた1744(延享元)年の干支によるもので、嗣子の一隆がその銘文を記している。
 次に、進正の孫の一貫すなわち雄次郎の父も、やはり大庄屋を務めていたが、謙虚な人であったと言い伝えられる。また、一貫は長崎に出向き火薬製法を習得し、1868年になって紀伊国那賀郡(現・和歌山県)で本格的な火薬製造を開始したが、他の火薬製造などと競合して失敗に終わった。そして、81年には大阪に移住し、キリスト教徒になったという。
 一方、一貫の長男・弥太郎は、波瀬村へのキリスト教の布教が進む中で、1884年村内最初にキリスト教を受洗し、87年には講義所も設立した。先に教徒になった父の影響も強かったのかもしれない。
 雄次郎は、1852(嘉永5)年生まれで、父一貫の火薬製造事業の失敗に伴い和歌山藩の砲兵隊に編入され、71年の廃藩置県後は大阪鎮台の砲兵となった。若い砲兵3人が政府からフランス留学を命じられ、雄次郎も選ばれてヨーロッパの文化に接した。その後、78年に結婚、80年東京陸軍士官学校教官、85年陸軍大学校教授を経て、88年には陸軍中将・山県有朋のヨーロッパ巡閲に随行する。そして、1902年陸軍中将、04年貴族院議員、14年南満州鉄道総裁などを歴任した。20年には宮内大臣に就任し、以後枢密顧問官なども務めるが、28年(昭和3)年10月に逝去した。
 これらの履歴や事績については、1943年に発刊された「中村雄次郎伝」に詳しいが、この伝記のことは「一志町史」にも紹介されておらず、中村さんと会うまで知らなかった。また、「三重県史」資料編(近代4)では、兄弥太郎が波瀬村でいち早くキリスト教講義所を開設したのは、若くしてフランス留学した雄次郎の影響があったという可能性を指摘してきた。しかし、中村さんの「雄次郎は、神道者であった」という一言で否定された。それに、中村さんは今回の故郷来訪を機に「中村雄次郎伝」の復刻を決意され、昨年10月に完成したというので、県史編さん資料の一部として寄贈いただいた。
 こうした故郷来訪やルーツ探しの問い合わせは、団塊世代の定年退職を控え、今後更に増えていくであろう。すべてに回答すること難しいものの、少しでも対応できるように県内各地の様々な情報を集めておきたいと思っている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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