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救助の礼に無料公演―川上音二郎の手紙


「川上音二郎直筆の葉書」(個人所蔵)

「川上音二郎直筆の葉書」(個人所蔵)


 この11月、東京日比谷に東宝直営の「シアタークリエ」という新しい劇場が誕生した。柿(こけら)落しでは「恐れを知らぬ川上音二郎一座」と題した喜劇が12月末まで上演されている。川上音二郎といえば、「オッペケペ節」で売り出し、明治期の新派劇の基礎をつくった俳優として広く知られている。上演の劇は、1899(明治32)年の川上一座のアメリカでの巡業を素材にした三谷幸喜の作である。
 今回、県内の農村舞台に関する追加調査を実施している中で、川上音二郎がアメリカから送った葉書を実見することができた。消印から「明治32年」と読みとることができる。宛名は、英語で書かれている。三重県北牟婁郡桂城(かつらき)村(原文では「ra」が欠落している)島勝の三宅茂右衛門(もえもん)宛である。桂城村は、97年に当時の引(ひき)本(もと)村(現紀北町海山区)から島勝浦と白(しろ)浦(うら)が分離独立して誕生した村である。この村は、1954(昭和29)年に相賀町など四か町村が合併して海山町となるまで存続していた。「海山町史」によると、三宅茂右衛門は明治前期に島勝浦の戸長を勤めていた人物である。裏面では、7月27日の日付で川上音二郎がアメリカのカリフォルニアから発した手紙であることがわかる。本文は、西部での視察をほぼ終え、東部へ出発することになったが、平素の御無沙汰を詫びている内容である。
 さて、三宅茂右衛門に川上音二郎から手紙が来たのは、前年の98年の出来事にさかのぼる。音二郎は、妻の貞奴と東京から小舟で神戸をめざして太平洋を航海していた。当時の伊勢新聞の記事によると、音二郎一行は11月8日に鳥羽に上陸し、12月7日には大泊(現熊野市)に寄港している。島勝は両者の間に位置するが、残念ながら関連する記事は見当たらない。島勝での出来事は、演劇関係の冊子や「島勝小学校百周年記念誌」の中で取り上げられている。嵐にあって漂流していた時に茂右衛門が支配する船に助けられたことが、今回の手紙とともに紹介されている。
 その後、川上一座がお礼の意味も込めてであろうか、1903年に島勝浦の舞台で三日間の無料公演を行っている。地元の住民によると、その後も何回か一座による公演が行われたとのことであるが、詳しい資料は残っていない。島勝浦の舞台は、島勝神社の前にあり、回り舞台の構造もあったという。現在、舞台のあった場所は集会所の敷地となっており、当時の面影は全くない。近くに住む古老の話では、かつては毎年2月に、厄年(やくどし)の年齢の男女が資金を出して芝居役者を呼んで公演をしてもらっており、公演後は、鰤(ぶり)を手土産として一行に渡したという。明治後半からの島勝浦は、鰤大敷網による収益で賑わった港町でもあった。同じような厄年の人による買い芝居は、山を越えた須賀利村(現尾鷲市須賀利)でも行われており、漁港の鰤を揚げた広場の横に回り舞台があったという。
 ところで、1907年から津の曙座をはじめ県内の劇場で川上一座による公演があったことが「三重県の劇場史」に記されている。07年の曙座では、音二郎は俳優として舞台に立ち「ハムレット」を演じ、翌年の永楽座(津市久居)でも音二郎は舞台に立っている。しかし、10年の曙座で予定されていた川上一座の公演では、音二郎は演説のみで出演しないとなった。このため、曙座主は一座による公演中止を決め、その旨を伊勢新聞に公告している。結局、川上一座は、同じ津市にあった泉座で公演を行い大盛況であったが、音二郎が舞台で演ずることはなかったという。以後、14(大正3)年まで妻の貞奴らによる川上一座の公演が伊勢や桑名、四日市の劇場で行われているが、その間、11年に音二郎は48歳の若さで他界している。
 川上音二郎直筆の手紙は、今でもゆかりのある地元で大切に保管されている。島勝浦の回り舞台が姿を消したことは残念であるが、この手紙が地域の歴史を物語る資料として受け継がれていくことを願っている。

(県史編さんグループ 服部久士)

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