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地域の社会状況伝える―明治23年創刊「志摩尚志会誌」


「志摩尚志会誌」の表紙さまざま

「志摩尚志会誌」の表紙さまざま


 県史を編さんするための史料としては、文書類のほか、印刷物も対象となる。特に近現代史では、県内各地域で出版された各種の雑誌が参考になり、古書店の目録も雑誌の所在情報を知る上で重要である。この間も、ある古書店の目録で「志摩尚志会誌」9冊が販売リストにあることを知り、果たして入手済みかどうかを調べてみたところ、既に国立国会図書館などが所蔵のものを複写していた。しかし、志摩尚志会や雑誌のことについて、一般にはあまり知られていないので、今回はそれを紹介してみようと思う。
 まず、「志摩尚志会誌」の創刊号を見ると、発行は1890(明治23)年5月で、東京で発行されたことがわかる。志摩尚志会は、志摩から上京した学生を中心に親睦と郷土愛の醸成を目標として組織された。「尚志」とは「志を高くすること」という意味であるが、旧鳥羽藩校名が「尚志館」であり、それにちなんだのであろう。1885年に成立し、会誌創刊までに26回もの例会を開催していたという。
 創刊号の名簿によれば、会長には最後の鳥羽藩主・稲垣長敬(ながひろ)の弟であった稲垣長完が就いていた。そのときの会員は50名ほどで、東京在住の会員が多かったが、翌91年8月の第11号の名簿では総会員数が167名に増加した。「会誌」の発行によって入会者が増えたのであろうが、その内訳も、東京在住の会員52名、地元志摩の鳥羽町41名・他の志摩郡20名、その他54名と会員の層も広がった。名簿には、板垣退助らと共に自由民権運動に参加し、90年の帝国議会開設に伴って衆議院議員となった栗原亮一や県会議員から91年に衆議院議員に補選された角利助、さらに、のちに千代田生命保険会社を創立し貴族議員にもなる門野幾之進、そして当時真珠養殖に取り組もうとしていた御木本幸吉など、鳥羽ゆかりの有名人の名前が多く並んでいる。
 雑誌「志摩尚志会誌」の内容はさまざまであるが、「在郷会員通信」あるいは「郷里通信」などは志摩地域の社会状況がわかり、史料として有効である。第8号(91年4月)では、鳥羽鉄工所が度会郡神社港(かみやしろこう)(現・伊勢市)の造船所と合併して鳥羽鉄工所造船部と改称し、工員も400人を超えたことが伝えられる。また、第11号(91年8月)では、伊勢湾内を往復する汽船が毎月1・3・6・8の日に愛知県の宮(熱田)から四日市・津・神社港を経て鳥羽港に入港することになって随分便利であることを報告している。
 こうした志摩地域の情報は、「郷里のことども」や「故郷を語る」に欄名が変わり、1931(昭和6)年には雑誌名を「尚志」に変更するが、連続して掲載される。40年の記事を見ると、真珠湾交通という会社が波切町から御座村に至る前島(さきしま)縦貫バス路線の権利を取得したこと、南米サンパウロから貝ボタンの大量注文があったことなどが記されている。
 この雑誌は、基本的には月1回のペースで発行され、現在のところ42年の1月号まで確認できる。その後は戦争の影響もあり、発行されていたかどうかハッキリしないものの、50年以上もの間継続して発行されたことには感心し、編集者の苦労がしのばれる。
 41年の7月号には、「小久保栄一君家事都合により郷里鳥羽に帰郷せられ候為」事務所を移転するという通知が載っている。すなわち、小久保栄一氏が弱冠24歳のときから志摩尚志会の編集事務局を10年間引き受けられていたのである。鳥羽に帰えられてから、氏は鳥羽町議員や町助役に就任され、57年から12年間は鳥羽市の教育長も務められ、その後は雑誌「郷土志摩」の編集にも当たられた。97年に逝去されたが、氏や先代事務局山田鎗之助(そうのすけ)の孫娘という夫人は若いときから克明に日記を付けられており、実は今、その日記類を県史編さんグループで預かっている。近現代史料として、詳細な解読や分析は今後の課題であるが、志摩尚志会の事務局で培われた広い見識をうかがうことができそうである。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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