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伊勢大湊の造船業と徒弟学校−調査船や練習船も多数建造


写真 市川造船所「幼年職工進給表」

写真 市川造船所「幼年職工進給表」


 南極観測船「しらせ」が25年にわたる最後の航海を終えて帰港し、次の新しい南極観測船が「しらせ」の名を継承し、進水式を終えた記事がこの4月に掲載されていた。「しらせ」の名前は、南極点への到達をめざした白瀬矗(のぶ)中尉からとったことはよく知られている。ノルウェーのアムンゼンやイギリスのスコットは、白瀬より少し前に南極点に到達したが、白瀬は1912(明治45)年1月に途中で断念し、その場所を大和(やまと)雪原(ゆきはら)と命名している。
  日本人として最初に南極をめざした白瀬中尉が乗り込んだ船は、全長30メートル足らず、204トンの「開南丸」である。「開南丸」は、白瀬が木造帆漁船であった「第二報效(ほうこう)丸(まる)」を購入、厚さ6ミリの鉄板と補助エンジンを取り付けて補強したものであった。この「第二報效丸」を建造したのが、大湊町(現伊勢市大湊)の市川造船所である。
  市川造船所は、造船業界の不況の中で、1978(昭和53)年に倒産したものの、残った労働組合員が船の修理などを行いながら、造船施設を維持してきた。しかし、2年前に操業をストップし売却されることになり、市川造船所で使われた様々な造船道具や舵をはじめとする船具、図面、書類などを保存していこうという動きがおこった。地元の人たちや伊勢教育委員会をはじめ、多くの関係者が何日もかかって、それらを別の場所に移し、現在は伊勢市教育委員会が管理している。県史編さんグループでは、その移転作業に協力するとともに、以後も明治期の資料整理や目録作成に通っているが、膨大な分量であるため、なかなか進まないのが実情である。
  明治期、宮川の河口に位置する大湊には、市川造船所のほか大湊造船所、松崎造船所、吉川造船所、内田造船所などがあり、宮川上流の大台ヶ原の木材を利用し、堅牢で低廉な価格の船舶が特徴であったという。今回整理している資料には、数多くの漁船の建造記録以外にも、三重県水産試験場の「三水丸」や岩手県庁所属の「岩手丸」、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の初代練習用木造帆船「忍路丸(おしょろまる)」の建造関係の資料が含まれている。
  また、1906年の「幼年職工進給表」がある。幼年職工とは、どういう人たちであったのだろうか。
  明治期の大湊の造船業の発展に寄与したのが、1896年に設立された大湊工業補習学校である。「三重県教育史」によると、当時の大湊町も高額な町費を支出しており、町財政は相当苦しかったという。この補習学校は、99年に大湊造船徒弟(とてい)学校と改称し、本格的な工業教育を主とした職工養成機関に変わり、入学生は指定の実習工場と6か年の年季徒弟の契約を結び、授業料や書籍等の学費は工場側が負担することになっていた。実習工場として指定を受けた造船所は三つあり、その一つが市川造船所である。「幼年職工進給表」は、大湊町立徒弟学校で学んでいた職工たちの給与関係の記録であろう。
  なお、この徒弟学校は、大湊町立工業学校、宇治山田市立工業学校などの変遷を経て、現在の伊勢工業高等学校となっている。残念ながら、造船科は2002(平成14)年に募集停止となり、2004年に最後の卒業生を送り、108年間に及ぶ歴史に幕を降ろしている。
  さて、かつての従業員や地元の人たちにより、大湊の造船の歴史を刻んだ膨大な量の道具や船具、図面などが残された。これらの資料は、造船業に資料は、造船業にたずさわった人たちの技と熱意の文化でもある。これらをいかにして後世に伝えていくかは、資料目録の作成や保存措置など、様々な機関や多くの人たちとの連携が、今、大きな課題となっている。

(県史編さんグループ 服部久士)

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