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ブランドに大きな誇―博覧会事務局に「褒状訂正願」


褒状御訂正願

褒状御訂正願

明治時代の三重の物産

明治時代の三重の物産


  昨年度、県庁所蔵資料のPRを目的に、『県庁文書が語る 明治時代の三重の物産』をテーマにした小冊子を作成した。茶・真珠・アワビ・万古焼・ヒノキなど、現在「三重ブランド」に認定された物産や伝統工芸品に指定されたものや、を中心として、そのほか明治期の県の物産の代表的なものとして米や生糸・カツオ・ブリ・石灰など紹介している。
 今日の話題は、その小冊子のコラムに使用したものだが、そのPRも兼ねて紹介しようと思う。
 1890(明治23)年4月1日から7月31日まで、東京上野公園内で第3回内国勧業博覧会が開催された。博覧会規則によれば「出品中優等ノモノニ対シ其出品主ニ褒賞ヲ授与ス」とあり、名誉賞・妙技賞・有功賞・協賛賞とそれに次ぐものとして褒状が設けられていた。三重県からは延べ212人の受賞者が出ている。授与式は7月11日に執行された。 
 このとき、褒状に記された物産名をめぐって、その変更を求めるという出来事があったことが『明治廿三年 第三博覧会書類』に綴じられた「褒状御訂正願」から分かった。事の発端は、松阪木綿を出品して褒状を受賞したが、その褒状の物産名が「伊勢結城縞(ゆうきじま)」となっていたことによる。結城縞とは、茨城県結城地方で産する縞木綿のことであるが、『褒賞授与人名録』を見ると、伊勢結城縞として褒状を与えられた。受賞者は、飯高郡松阪町内の6人を先頭に、津市で4人、安濃・一志郡で各2人の計14人であった。問題の褒状訂正願は、同年8月21日付けで松阪木綿業組合出品人受賞者惣代として岡田又右衛門と川口平三郎の連名で博覧会事務局に出されたものである。この願書の内容から、提出に至る経緯と彼らの主張を読んでみよう。
  彼らの主張は、伊勢結城縞を「松阪木綿織」か「松阪縞」と書き換えて欲しいというものである。その理由は、松阪木綿の名称は往古からある固有の名称で、全国に流布したものであるという。
  博覧会事務局に褒状の変更を願い出たが、8月18日になって事務局から届いた回答は「名称之義、左ノミ障碍(害)ニモ不相成哉、且伊勢ノ製産物ナレバ伊勢結城ト称スモ又松阪木綿ト称シ何レニシテモ可ナラン哉」という内容であった。すなわち、博覧会事務局にとって、物産名の相違は大きな問題ではなく、伊勢国産であるなら伊勢結城でも松阪木綿でもよいのではないかという、楽観的で期待はずれなものであった。
  そこで、受賞者たちは、直ちに再度名称変更を求めたのである。それが8月21日の願書である。今度は、7月下旬に審査室において審査員が織物審査要件を話した中に「松阪木綿云々」という言葉を聴いた記憶を持ち出して、あくまで松阪木綿は「従来顕然タル名称」であると主張する。この願いは前述の『褒賞授与人名録』を見る限り、聞き届けられなかったようだが、これほどまでに彼らが「松阪木綿」という名称にこだわった理由は何だったのだろうか。彼らの主張の中に核心的な部分がある。それは、県内の木綿織物には、松阪縞(松阪木綿織)と伊勢縞の2種のブランドがあり、松阪縞の方かが伊勢縞よりも良質であった。これは、商人であれば熟知するところであるという部分である。馴染みがない伊勢結城では取り違える人もしばしばあると思われるとあるが、おそらく、伊勢結城では松阪木綿よりも品等が劣る伊勢縞を連想してしまうことが問題だったのではないだろうか。
  彼らにとって高級ブランドの松阪木綿の名称入りの褒状をもらえることが、生産者としての誇りであり、商売上の有効な看板となったのであろう。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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