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合併後も整然と管理―四日市製紙会社資料


四日市製紙会社創立規約書

四日市製紙会社創立規約書

整理された関係資料

整理された関係資料


 第45話で菰野町重盛家所蔵資料を紹介したが、重盛信近宛の書簡には、静岡県富士郡芝富(しばとみ)村(現芝川町)四日市製紙芝川出張所の住所が記載されたものが多く含まれている。
 四日市製紙会社は、1887(明治20)年12月に四日市浜町(現四日市市)で創設され、93年四日市製紙株式会社に改称した。芝川工場は96年に建設が始まり、98年から操業を開始しているが、重盛信近は四日市製紙の取締役として四日市と芝川会社の間を行き来していた。
 現在は王子特殊紙株式会社の工場となっており、四日市製紙会社関係の資料が残されているとのことで、現地を調査する機会を得た。東海道線富士駅で身延線に乗り換えて、40分ほどの所である。途中の富士宮駅からは先は、山あいを列車が走り、2時間に1本程しか通っていない。
 さて、四日市製紙会社の前身は82年に創立された水谷紙質製造所で、86年には四日市工業会社となり、菜種油の絞油器械を導入した本格的な洋式製造による製油業との兼営であった。この四日市工業会社の紙質製造部を母体に、東京と京都の資本を合わせて四日市製紙会社が設立されたのである。この三者による創立を主唱したのが、「四日市製紙会社創立規約証」にも名を連ねている第一国立銀行四日市支店長の八巻(やまき)道成であった。当時の第一国立銀行頭取は渋澤栄一であり、明治期の日本の産業勃興に貢献した人物で洋紙産業の開始にも関与し、王子製紙の創業者でもある。 
  四日市製紙会社の洋紙生産は、王子製紙の大川平三郎の技術指導と新聞や雑誌などの紙の需要増加により、94年頃からようやく生産が軌道に乗った。需要増加に応えるため新工場の建設が水力の利用とパルプ材の入手等の条件から静岡県芝川に決定されたのである。
  新工場の建設が始まったところ、97年に四日市の本社は、事務室1棟だけを残し、工場が焼失した。本社工場の再建は断念され、生産拠点は、翌年から操業を開始する芝川工場に移されることになった。四日市製紙会社は、その後、1919(大正8)年に富士製紙に合併されるまで約32年間存続する。この間、重盛信近をはじめ、九鬼紋七や熊澤一衛など四日市実業界の著名人の多くが、芝川工場と四日市を往復している。株主総会は、芝川で一時期開催されたようだが、通常は本社のある四日市で行われた。富士製紙との合併を承認した総会の時も、九鬼は機会があれば四日市の工業発展に尽力してほしいと要望している。
 富士製紙芝川工場は、1933(昭和8)年に樺太工業とともに王子製紙に合併され、王子製紙芝川工場となる。戦時中に製紙業を停止し鉄工業に改編し、王子製紙から独立。戦後は王子鋳造株式会社となるが、60年に芝川製紙株式会社に改称して製紙業に専念することになる。84年に新富士製紙に合併され、現在では王子グループの芝川製造所として、主にヨーグルトなどの紙容器の生産を行っているという。明治期に四日市製紙会社が工場を新設する際に造った水力発電は、現在でも芝川製造所の電力の一部をまかなっている。
 芝川製造所のレンガ造りの倉庫の2階には、今でも四日市製紙をはじめ、富士製紙など現在に至るまでの会社の各種文書が整然と箱に入れられ並べられている。文書は紙箱に差し込まれ、1点ずつ通し番号が付けられている。さらに数冊ずつ大きな紙箱に納められており、取り出し部を内側にして塵やほこりが入らないように工夫されているのには感心した。
  四日市製紙会社の「設立許可願」、「芝富村との契約書」、「大台山の出材計画」などが含まれ、会社名が変わっても創業時からの歴史的な資料を大事に保存している。資料を大切にし、会社の方針や理念を語る工場関係者に企業アーカイブズの一端を垣間見ることができた。三重県内でも、文書の整備・保存は大きな課題であり、参考にしたいものである。

(県史編さんグループ 服部久士)

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