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稲の成長や害虫駆除に適す−南牟婁郡から正条植の発達


「南牟婁郡ニ於テ縦横真直ニ見通シテ田ヲ植フル図」(『三重県勧業月報』第33号)

「南牟婁郡ニ於テ縦横真直ニ見通シテ田ヲ植フル図」(『三重県勧業月報』第33号)

西徳次肖像(『地方発達と其の人物』)

西徳次肖像(『地方発達と其の人物』)


 三重県のほとんどの地域では、ゴールデンウィーク中に田植えが終わり、今は青い稲が風に揺れている。例年に比べ日照不足だそうで、稲の生育への影響が心配される。現在は機械植が主流で、どの田も整然と苗が植えられているが、田植えがまだ人力で行われた時期でも、縦横が等間隔で真っ直ぐに植える方法が行われていた。これを「正条植(せいじょううえ)」という。一般的には、正条植は明治30年代後半に県や農会の強い指導のもとに定着したとされている。たとえば、安濃郡(現津市の一部)の実行率を見てみると、1902(明治35)年に0%だったのが、06年には98%と驚異的な伸びを示した。また、一志郡豊地村(現松阪市)の当時の村長日記によれば、郡役所から検査に来て、正条植がなされていない田では「植え直し」が命じられたりしている。厳しい指導があったようだ。
ところが、1882年(明治15)の『三重県勧業月報』には、挿図のような南牟婁郡での正条植の様子が紹介されている。これは、同年9月に県庁で開催された農業専門会の席上で、神内村(現紀宝町)の西徳次が考案した草取り器紹介の参考として添えたものであって、南牟婁郡では随分早くから正条植が行われていたのである。確かに、同郡は02年の県平均実行率が42%だった時に83%と高率を示している。
1925(大正14)年に作成された『紀伊・南牟婁郡誌』では、西徳次が正条植普及の第一人者として紹介されている。それに従えば、1872(明治5)年、商用で訪れた愛知県知多郡大谷村(常滑市)の酒造家の田が碁盤の目のように整然と稲が植え付けられていることに感銘し、植え方を教わった。翌年から父親とともに試行錯誤の末、82年に「完全なる植方を発表」するに至ったという。それが挿図のような植え方であろう。
 これをみると、先に1列を畔に沿って等間隔に植えて基準を作り、その1株の真上を通過するように等間隔に目印が付いた綱を両畔から引っ張らせ、綱の目印の所に苗を植えている。田には、植え付け人が苗を取りに戻らなくてもいいように苗の束が投げ込まれている。
西徳次は、こうした正条植にすることで、稲が生長した時、空気の通りがよく、害虫駆除や除草機(車)の使用にも適していると紹介している。また、県庁で報告した82年の春にも、新宮瑞泉寺で行われた東南両郡勧業有志会の席上で除草機と正条植の紹介を行い、東牟婁郡に除草車と正条植が大いに普及したという。
 ところで、最近、有馬村(熊野市)の南徳左衛門が第二回内国勧業博覧会へ籾種を出品した解説書に正条植の記事を見つけた。同史料は80(明治13)年に書かれたと考えられるが、「一直線ニ縄ヲ張リ一尺一寸方ニ植ユ…縄ヲ張リ植ユル事ヲ初メシハ十ヶ年以前ヨリ行ヒ見ルニ…便益アルヲ以テ衆人追々縄ヲ張ル事ヲ見倣ヒ自今ハ最モ流行ス」とある。厳密に10年前と考えれば、西徳次より南徳左衛門の方が早く正条植を行っていたことになるが、順番はさておき、これらのことから、南牟婁郡にはかなり早くから正条植が広まっていたことが裏付けられるのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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