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廃藩置県以前の度会県−県庁に残る北勢地域の管轄地引渡史料


写真 管轄地引渡に関する笠松県からの書状

写真 管轄地引渡に関する笠松県からの書状


 1876(明治9)年4月18日、旧三重県と度会県が合併して現在の三重県が誕生した。この旧三重県とは、1871年11月22日の第2次廃藩置県によって成立した安濃津県(翌年、県庁を四日市に移転し県名を三重県と改称)で、伊賀国と安濃郡以北の伊勢国を管轄していた。
  一方の度会県は、一志郡以南の伊勢国と志摩国及び紀伊国牟婁郡の一部からなり、度会郡山田岩淵町(現伊勢市)に県庁が所在した。
  ただ、度会県は、廃藩置県以前にもあって、県庁は同じ度会郡山田町内に置かれていたが、その管轄地や性格は全く違ったものであった。
  それは、明治新政府が1868(慶応4=明治元)年に打ち出した「府・藩・県三治制」という方針に基づくもので、大名の支配地の藩はそのままとし、旧幕府領や社寺領などを中心に政府直轄地として9つの府と22の県を設置した。現在の三重県域では、府として度会府が置かれ、木曽三川下流域の桑名郡内の旧幕府領は笠松県(現岐阜県)、信楽代官所の管理下であった三重郡四日市町などは大津県(現滋賀県)の管轄となった。
  度会府は、これまでの山田奉行所に代わるもので、「祭政一致」の理念を掲げる明治新政府にとって伊勢神宮の保護は重要課題であり、度会府の知事には公家出身の従三位の橋本実梁が任命され、初の天皇神宮参拝などが計画される中で、強烈な神仏分離施策などが推進された。
  しかし、69年7月、府は東京・京都・大阪だけに限られ、他の府は県と改称され、度会府も度会県となった。それとともに、管轄地の変更も行われた。当初、度会府の管轄地は、神領と近辺の旧幕府領だけであったが、北勢地域にあった笠松県や大津県の管轄地のほか、幕軍の主力であった桑名藩の没収地なども順次度会県の管轄地になっていった。
県史編さん事業を開始した25年程前、岐阜県境に近い現在のいなべ市小原一色の旧家で度会県の高札を拝見し、度会県は南勢地域という、これまでの知識を完全に否定されたことを今もよく覚えているが、廃藩置県によって成立した度会県とは全く違うものであった。
こうした北勢地域の度会県管轄地の引継ぎに関する書状類が県庁にいくつか保存されており、度会県の職員と笠松県・大津県職員の事務レベルでの遣り取りの様相がわかる。
  まず、笠松県や大津県の管轄地の度会県への移管が決定されるのは、69年8月2日の太政官達であるが、既に6月1日の大津県から度会県への書状には「社寺領并万石已下之領知共各藩領相除管轄与相心得」と見え、事前に担当者は管轄替えを知っていた。正式な通知の後は、引渡の期日などについての書状が交換された。最初、大津県では秋の租税検見が始まらない9月2日までに引渡したいという意向があったが、度会県側では「遷宮御用ニ而多端之折柄」として10日間延長し、9月12日に引渡が行われた。この時、度会県になった村々は三重郡の四日市町をはじめ、河曲郡・鈴鹿郡・奄芸郡の約30か村で、同時に大津県出張所が度会県の四日市出張所となった。
  また、笠松県の管轄地は、簿記類を紛失し揃っていないので、取調に手数がかかっているという8月12日付けの笠松県からの書状があり、引渡は翌年の2月3日と遅れた。それに、名古屋藩が管理していた桑名藩の没収地も3月13日に度会県に引き渡され、その後も多少管轄地の異動があったが、結局71年11月の第2次廃藩置県によって北勢地域にあった度会県は姿を消してしまった。
なお、この時期の度会府・県に関する文書類は、多数県庁に残されている。伊勢神宮周辺の神仏分離史料や北勢地域の忍藩騒擾史料など、全国的に注目されるものも多い。さらに、明治期の県庁文書は、地租改正関係史料や「伊勢暴動」と言われた地租改正反対一揆関係史料のほか、明治の勧業関係史料など、本欄でも多数その史料を紹介してきた。しかし、まだまだ、詳しい史料の調査分析を行えば、新しい歴史の発見につながる可能性は十分にあり、多くの方々の有効的な閲覧利用を期待したい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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