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名張に多くの作品残る―安本亀八の生人形


安本亀八作「角田半兵衛・みか夫妻像」伊賀まちかど博物館はなびし庵HPより

安本亀八作「角田半兵衛・みか夫妻像」伊賀まちかど博物館はなびし庵HPより


 生(いき)人形(にんぎょう)というものを御存知だろうか。文字通り、まさに生きているかのように写実的かつ精巧に作られた人形のことで、幕末から明治にかけて流行した。当時、大阪や江戸(東京)の見世物興行では、生人形を用いた大掛かりなパノラマ細工がとりわけ好評を博したと言われる。こうした生人形の作者は何人か知られているが、その中の一人に安本(やすもと)亀(かめ)八(はち)という人形師がいる。
  亀八は別名「光政」、「素川」ともいい、晩年は「亀翁」とも号した。1826(文政9)年、熊本迎町の仏師の家に生まれる。父親は彫刻に秀でており、彼も幼い頃から手細工は巧みであったという。また、熊本では毎年夏の地蔵祭に、身近な素材や日用品を材料にして歴史上の人物や動物などを本物そっくりに作る「つくりもん」と呼ばれる細工物が有名であるが、彼も仏師修業のかたわら、その製作を通じて腕を磨いていったと考えられている。
  安政年間(1854〜60)に郷里熊本を離れた亀八は、近畿地方に渡って大和や河内等を巡遊しながら神社仏閣の彫刻などを手掛けている。
  注目すべき三重県とのかかわりは、1860(万延元)年頃から1866(慶応2)年頃までの間、断続的に現在の名張市に滞在し、製作を行っていることである。今も残るそれらの多くは肖像彫刻で、特に地元の有力者が多く注文し、その像主となっている。
 代表的なものとして、医師「横山文圭像」、荒物商で茶道や謡を楽しむ文化人でもあった「岡村甚六像」、酒業を営み江戸期には町年寄も務めた素封家の「角田半兵衛・みか夫妻像」等がある。これらは、いずれも像高30pほどの木彫彩色像で、顔立ちや体つきにモデルの特徴が良くとらえられている。また、服装は羽織を纏って帯刀するなど像主の社会的地位がうかがわれるもので、着物の色や襟元の細かな模様も忠実に再現されている。小像ながらもなかなか達者な作で、作者の高い技術が感じられる。
  このほかの代表的作品としては、市内宇流冨志禰(うるふしね)神社に所蔵される能面(三重県指定文化財)45面のうち1点「橋姫」が、亀八の作品である。彼は熊本に居た頃に能楽金春(こんぱる)流の白井家と懇意であったこと、藩主細川家が能楽を愛好していたことなどから、かつて能面を製作したことがあるのではないかという指摘がされている。また、津市の高山神社には絵馬が伝来し、津市有形文化財に指定されている。額縁を含めた大きさが縦153p×横216pという大作で、ケヤキの厚板にサクラ材の木彫像2体が配される。
  やがて、亀八は明治初年から本格的な生人形興行に乗り出していく。1870(明治3)年、大阪難波新地南で「東海道五十三次道中生人形」が大好評になると、75年には東京浅草に本拠地を移す。さらに、77年には西南戦争を話題にした「一世一代鹿児島戦争実説」等を発表し、生人形師として成功した。のちには菊人形も手掛け、「人形ハ、ヤスモトカメハチ」と言われるようになる。
 彼の息子や孫は代々「亀八」を襲名するが、特に三代亀八は、各国の万国博覧会に出品された等身大の風俗人形や、デパートのマネキン人形を製作しており、このマネキンの系譜は現代までつながるものと言えよう。
  明治後半以降、生人形は次第に廃れていき、やがてほとんど忘れられた存在となる。近年、ようやく出身地熊本を中心にして再評価の動きがあるが、それ以前のものとして、名張の郷土史研究家冨森盛一氏による丹念な事跡調査に基づいた著作『生人形師 安本亀八』を紹介しておきたい。生人形がまだそれほど知られていない時期のもので、この先駆的な業績は今後高く評価されるべきであろう。
  名張市の旧家では、今も大掃除等の際に亀八の彫刻が発見されることがあるという。また、市の公民館講座で冨森氏の子息が亀八をテーマに講演されるなど、亀八をめぐる動きが続いている。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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