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銘文判読で明らかに―増加する近世の経塚


妙相寺の「「大乗妙典 一字一石」経碑(「はくさんの石造物ー八ツ山地区編」より)

妙相寺の「「大乗妙典 一字一石」経碑(「はくさんの石造物ー八ツ山地区編」より)


 近年、県内各地で石造物の調査が盛んに行われている。道路沿いの標柱や石仏など、私たちの周りには意外に多くの石造物がある。屋外にあって比較的調査しやすいという側面もあってか、調査の主体も市史や町史の刊行に伴うものもあれば、公民館講座の活動が母体になったものなど、幅広く様々である。また、それらを丹念に調べることで、これまで知られていなかった新たな事実が発見されることもある。
 以前にもこの欄で紹介したが、津市白山町では、旧白山町文化財保護委員が中心になって新たに白山町石造物調査会を組織し、町内を五つの区域に分けて石造物調査を実施している。既に報告書2冊が刊行され、今後も継続していく予定である。今回は、それら石造物の中から「経塚」に関係するものについて紹介してみたいと思う。
経塚とは、その名のとおり主に経典を土中に埋納したもので、その造営は、仏教では善行を積む行為として推奨された。わが国では平安時代の中頃から始まったとされ、埋納方法は一様ではないが、教典を入れた銅製などの容器(経筒)を陶製の外容器に入れ、さらに小石室に納めた例が多い。また、まれに教典以外に鏡や仏像などの副葬品を伴う場合もある。
 一般に経塚というと、平安時代後期の末法思想に基づくものが有名で、遺物にも優れたものが多い。三重県にも朝熊山経塚(伊勢市朝熊町)をはじめ、蓮台寺滝ノ口経塚(同市勢田町)や漆経塚(津市美杉町)などが知られている。しかし、経塚の造営自体はその後も続いており、中でも近世にはかなり多くの経塚が造営されていることがわかってきている。
 たとえば、白山町八ツ山地区の報告書を見てみると、妙相寺境内には、正面に「大乗妙典 一字一石」と刻まれた1734(享保20)年銘の石碑があり、その下に経典が埋められていることが予想される。同じく来迎寺境内にも、正面に「奉書納一礫一字大乗妙典」と刻まれた1743(寛保3)年銘の石碑が建つ。これらは、礫石(れっせき)経塚または一字一石経塚と呼ばれ、小型の川原石に一字から数字の経文を書写して大型の土坑(どこう)に埋納するものである。妙相寺や来迎寺のように上部に石碑を伴う場合が多く、近世以降の経塚はこの形態が大部分を占める。
白山町家城地区にも同様のものがあり、中山下経塚として報告されている。ここは2005(平成17)年に道路整備事業に伴う発掘調査が実施され、「一石一字金剛般若墓」と記された石碑の下から、蓋石のある信楽焼の壺に納められた一字一石経5405点が発見されている。
 また、八ツ山地区の常福寺境内に建つ宝篋印塔には銘文が刻まれ、一部判読不能な部分もあるが、法華経を礫石に書写した旨の記述が見られる。天性寺境内の宝塔にも同じような記述があって、いずれもその下に経石を埋納したと思われるものである。これらは、形態だけを見るならば近世の宝篋印塔や宝塔であるが、そこに刻まれた銘文を読むことで、経碑としての一面が浮上してくる。調査によって明らかになった事実と言えよう。
石造物調査の方法については、調査主体によってそれぞれ独自のやり方で行われているが、少なくとも可能な限り銘文の判読は必要ではないかと考える。ただ、石材の種類によっては風化し磨滅しているものもあり、そのような石碑類では、文字が読めないものも多い。白山町石造物調査会では、手鏡などを使用して光線の当て方を工夫することで何とか判読を試みている。
このように近世以降の経塚は、今後の調査によってまだまだ増加することが予想され、最終的には膨大な数になるものと思われる。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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