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江戸時代に高度な技術−四日市陣屋の堀跡 木床義歯が出土


中部西小学校々庭に建つ「四日市陣屋」記念碑

中部西小学校々庭に建つ「四日市陣屋」記念碑


 四日市は、東海道の宿場町として発展した町である。江戸時代は幕府領で、支配地管理のため代官所(陣屋)が置かれた。1724(享保9)年、四日市周辺の幕府領は大和郡山藩柳沢家に配置換えとなり、郡山藩はこの陣屋を利用して領地の管理を行った。1801(享和元)年に再び幕府領に戻るが、このときは近江国信楽代官多羅尾氏の管轄し、やはりこの陣屋に信楽から役人が派遣されてきた。その場所は、今の市役所の北約500m、旧東海道沿いの中部西小学校敷地とほぼ重なる位置にあり、江戸時代を通じて移ることはなかった。
  製作年代は不詳であるが、2種類の『四日市宿御陣屋絵図』が残っており、おおよその構造がわかる。敷地は東西44間(約80m)、南北43間(約83m)で東北隅はやや丸いものの、ほぼ正方形に近い。周囲に土塁が築かれ、その外側に堀が巡る。堀の幅は東側で13間(約23m)、南と西側9間(約16m)である。南側の入口は、土塁が鍵の手に曲がり直接表玄関が見えないようにしている。これは枡形(ますがた)と呼ばれる城郭建築によく見られる手法である。堀といい土塁といい、単なる館ではなく戦さを強く意識した建物構造であることがよくわかる。
  江戸幕府崩壊後、1869(明治2)年に度会県出張所が置かれたのも、明治5年3月に安濃津県庁が移転してきたのもこの陣屋であった。このとき、県庁所在地の郡名をとって三重県と称するようになり、明治6年12月に県庁が津に再度移転しても県名を変更することはなかった。明治9年の地租改正反対一揆(伊勢暴動)の際に陣屋は焼失、堀も埋め立てられた。その後は役所や学校などの用地として使用され、第二次大戦後、跡地一帯は第一小学校の敷地となり、中部小学校、中部西小学校と名を変えて現在に至っている。 
1999(平成11)年、小学校の校舎改築に当たって発掘調査が行われ、地表下約1.3mのところから、陣屋内の遺構や堀の一部が見つかった。堀からは江戸時代後半の瀬戸・美濃・信楽など陶器類、曲物・漆器など木製品類が大量に出土したことが報道された。その中で特に注目されるものとして木床義歯がある。これは黄楊(つげ)の木で歯茎と歯牙を丁寧に削って口に合わせた総入歯の上顎部分で、やや小型であることから女性用と思われる。
  そこで、わが国の義歯について少し見てみたい。木床を唾液で口腔内に吸着させて固定する方法は、当時、世界でも類を見ない極めて優れた方法で、医師シーボルトもヨーロッパへ紹介しているほどであった。材質は黄楊の木が多く、象牙・牛骨・蝋石・黒檀などを材料とした義歯を木床に埋め込んだものが高級品で、普及品は木床に歯型を彫刻した一体型のものであった。現存する最も古い木床義歯は、和歌山市願成寺に残る1538(天文7)年に没した尼僧の遺品とされるものである。既に技術として完成しており、使用痕もあることから、その初現はさらに遡ることは間違いない。これは、わが国の高度な木彫技術がその背景にあって、仏師たちの余技から派生し、やがて専門の職人集団が形成されたと言われている。江戸時代も安定期に入ると「入歯師」は村々を回ったり、祭の縁日に活動するようになり、後半には寺社の参詣道などに店を構える者も現れた。彼らの引き札(営業案内)によれば、職人気質もあってか代金は3両前後と相当高額であるが、上層の町人にまで普及していたようである。
  本居宣長は、息子春庭に宛てた手紙の中で、津の入歯師に作らせた入歯ができたため、また食べ物がうまく噛めることを素直に喜んで、次のような和歌を添えている
「思ひきや 老のくち木に春過ぎて かゝる若葉の又おひんとは」
1796(寛政8)年、宣長67歳の歌である。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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