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安政の地震で白子港衰退―明治期県庁文書に記載


奄芸河曲郡役所提出の「町村制実施ニ係ル取調上申書」

奄芸河曲郡役所提出の「町村制実施ニ係ル取調上申書」


 新潟県中越沖地震が発生して2か月になる。死者11名、負傷者約2000名、全壊家屋1000戸以上の被害が出るなど大地震であった。県内では、5月に亀山を中心に震度5強を記録する地震が起こっている。先の「発見!三重の歴史」や本続編においても、1854(嘉永7)年の「安政伊賀地震」や1944(昭和19)年の「東南海地震」、46年の「南海地震」を取り上げている。ホームページでのアクセス数は多く、人々の関心の高さがうかがえる。先日も、県庁文書にある「安政の地震」によって白子港(現鈴鹿市)が衰退したという記述についての問い合わせがあった。そこで、安政の地震と県庁文書について整理してみた。
「三重県史」資料編近世4(下)では、幕末の地震・津波の資料を掲載している。安政の地震とは、1854年(11月に「安政」と改元)6月から翌55(安政2)年10月までの1年半の間に発生した4つの巨大地震の総称である。54年6月15日の「安政伊賀地震」、同年11月4日の静岡県御前崎沖を震源とした「安政東海地震」、その翌日の四国沖を震源とした「安政南海地震」、翌年10月2日の江戸直下を震源とした「安政江戸地震」をいう。このうち、安政伊賀地震では、伊賀や北勢地域を中心に死者1300名以上、全壊家屋7000戸以上の被害が出ている。また、安政東海地震では、志摩半島から熊野灘沿岸に5〜10m、伊勢湾岸でも2〜4mの津波が襲っている。県内各地の古文書にも多数の死者や流失家屋の数が記されている。
なお、安政伊賀地震は、当時の資料をもとに発生時間や揺れの大きさを分析した結果、まず伊賀盆地直下で東西方向に走る木津川断層系の活動があり、それが引き金となって、桑名・四日市を南北方向に走る断層系が活動したとの研究成果が出ている。
さて、安政の地震による白子港の衰退の記事は、1888(明治21)年に奄(あん)芸(げ)・河(かわ)曲(わ)郡役所から県へ提出した「町村制実施ニ係ル取調上申書」の中にある。「白子荷ヲ以テ世ニ称セラレシ一佳港ナリシモ、安政年度ノ震災以来潮路ヲ変シ、堤防ヲ崩壊スルアリ」と記し、さらに旧藩(和歌山藩)の保護や入港する船からの鳥目(とりめ)(入港税)や川役銭を資金として港の修繕を行ってきたが、明治維新となり旧藩の保護や川役銭などの収入も失われ、修繕費もなくなり港が衰退したと書かれている。
県史編さんグループでは、明治期の県庁文書約7300点を所蔵している。そのうち、「市制町村制」に関する資料は約60点である。1889年4月から施行された「市制町村制」により、県内1817町村が1市18町317村にまとめられていく。その実施に向けて知事から郡長に町村分合の取り調べ訓令が出され、郡から人口戸数・資産・合併を要する理由のほか、沿革などの項目が県へ上申されている。この時期の奄芸郡と河曲郡の郡役所は合同で白子に置かれていた。今回の記事は、河曲郡江島村が奄芸郡白子村と一体となっており、江島村を奄芸郡に編入してほしいとする郡界更正を上申する資料の中の沿革の一節である。
6月の安政伊賀地震では、白子でも家屋が倒壊し、潰家55軒、死者12名が出たとの記録もある。11月の安政東海地震では、土地が沈降し、2〜3mの津波が押し寄せている。港の機能を失う要因となったのは、どちらの地震なのか、上申書の記録はそこまでは触れていない。
この上申書は、安政の地震から30年以上も経過しているが、白子港の衰退に地震の影響が大きかったことを物語っている。

(県史編さんグループ 服部久士)

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