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散逸食い止められた資料―西丸下上屋舗絵図


西丸下上屋舗絵図

西丸下上屋舗絵図


 昨年度、県史編さんグループでは資料現況確認調査を実施した。これは、県史の編さんに伴う過去の資料調査や県内各地の資料調査員から今までに報告された個人や公共機関等の資料群が、現在どのような状況下にあるのかを確認するものであった。40名の調査員に依頼し、半年程を費やして調査が行われたが、報告された内容は大変厳しいもので、我々が予想していた以上に資料群の廃棄や処分が進んでいる現実が明らかになった。
 特に個人所蔵の資料群では、核家族化や世代交代によって次世代に引き継がれない状況や、引越しや家屋の建て替えに伴う廃棄処分など、緊急に手だてを考えて対応せねばならないような事例も見られた。こうした資料群をたとえ一時的にせよ預かることができるなら、少なくとも滅失という最悪の事態だけは避けることができよう。今回は偶然に三重県が所蔵することとなった絵図を紹介することで、在野の資料群の保存について少し考えてみたいと思う。
 1998(平成10)年夏のことである。一志町(現津市一志町)在住の方が県史編さん室に一枚の絵図を持ち込まれた。折り畳まれていたが、広げると221a×164aの大きさになるかなり大きな絵図で、「西丸(にしのまる)下上屋舗(したかみやしき)絵図(えず)」と記されていた。5月に仏壇を移動した際に引き出しの底から発見されたということで、絵図が入っていることはまったく知らず、また先祖からも何も聞いていないとのことで、いったいどういうものなのか調べてほしいという調査依頼であった。
  早速手元の資料に当たってみると、西丸下上屋舗絵図はどうやら江戸時代後半の江戸城西の丸下(現皇居前広場)にあった幕府老中の役屋敷絵図であることがわかってきた。 役屋敷とは、今で言えば「公舎」あるいは「官舎」に相当する施設である。「天保七(1836)年二月二十九日」の日付から、龍野(現兵庫県龍野市)藩主脇坂淡路守安(やす)薫(ただ)が老中格となり、同年二月二十六日に役屋敷を拝領した時期と一致するため、このときに写された絵図面であることが判明した。絵図の注記から、東隣には武蔵国忍藩主(元桑名藩主)松平下総守忠(ただ)尭(たか)の上屋敷があり、西隣には「天保の改革」で有名な遠江国浜松藩主水野越前守忠邦が入っていたことがわかる。
  このような役屋敷図は、現在ほとんど残っていないのが現状で、絵図は部屋の様子はもちろんのこと、上水道の配置なども描かれており、一般の大名屋敷とは性格を異にする構造などが明らかにできるたいへん貴重な資料である。
  こうした詳細な屋敷図が、なぜ三重県の一志町に伝来していたのかはわからないが、所蔵者の先祖はかつて江戸に出ていたようで、その折に入手したものかと考えられる。結果を伝えたところ、歴史の編さんや博物館の展示などで活用してほしいので寄贈したいとの申し出を受け、県史編さん室が保管・管理することとなった。
その後、新聞等の報道を受けて、早くも10月には龍野市歴史文化資料館で開催された展示会に出品された。また、絵図の詳細な記述は、江戸の市街遺跡を発掘調査する際の参考に用いられたりしている。何と「ゴミ溜」の穴まで描かれていることから、最近では環境問題を考える際にも使用されるなどしており、様々な面から全国的にも有名になりつつある。
先日も、県内在住ではあるが、以前に皇居広場の隣接地の発掘調査に携わられた方で、東京では今この絵図が関係者の間で話題になっているというので来室され、絵図を仔細に調査された。
もしも仏壇を整理した際に必要ないものと判断され、他の雑多なものと一緒に捨てられていたならば、この絵図は永久に失われていたかもしれない。今回は問い合わせがあって、何とかぎりぎりのところで食い止めることができたが、貴重な資料はどこにどういった形で眠っているかわからない。県内に所在する資料を的確に調査し、県民共有の財産として保存し、活用していくのも博物館や公文書館の機能である。現在、検討が進められている新博物館構想に期待が寄せられる。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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