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復旧対策や給料カットも−天保飢饉、菰野藩の対応


「天保7年 見龍院日記」(菰野町郷土資料館収蔵)

「天保7年 見龍院日記」(菰野町郷土資料館収蔵)


 近年、地球温暖化の影響か天候不順やそれに伴う災害がよく見られる。江戸時代には、天候不順や災害が起こると、それが飢饉(ききん)へとつながった。江戸後期の天保期(1830〜44年)に起こった飢饉は、江戸時代の三大飢饉としてよく知られているところである。
今回は、飢饉での菰野藩の対応を見てみよう。菰野藩10代藩主土方雄(かつ)興(おき)は、1836(天保7)年には参勤交代で江戸にいたが、彼が書き残した日記(「見龍院(けんりゅういん)日記」)の12月5日の条には、「在所(菰野)損毛(そんもう)反古(ほご)出ル、四千二百石余」とある。当時、菰野藩は、三重郡及び近江国の一部、1万1000石あまりを領有していた。この損毛は領有高の35%に相当し、当時の村落からの徴収していた年貢高約5000石の84%にもなる。そう考えると、大変な被害であるが、雄興自身の日記には、この一文しかない。
さて、この状況下、菰野藩ではさまざまな対応がなされた。まず翌37年、領民に対して「御領内村々へ被仰出(おおせいだされ)御条目」という触れを発布し、質素倹約を命じた。雄興は、その翌38年に死去するものの、倹約令はそのまま継続された。また、菰野藩代官で農政を担当していた村井九兵衛が38年当時の藩の財政状況を書き記した「ものなりうけはらいちょう物成請払帳」によると、年貢徴収高1万2368俵余の中から各村々へ、主に用水関係に用いる籠竹代・杭代・堤築き立ての人足賃など、452俵余が下付され、山田村(現四日市市)へのお救い米も見られた。さらに、村々の囲(かこい)籾(もみ)として688俵が用意された。このように、飢饉の救済や災害復旧・対策が講じられたのである。
それは村落だけでなく、家中に対しても飢饉に照応した対策が見られた。1837年8月25日、家中に対して「七ケ年欠略(けつりゃく)申し付け候」(「見龍院日記」)と、同年から7年間の倹約を命じた。同時に藩主自身も「合力のうち10俵、金5両を勤める」と、倹約を行うことを承知している。また、この倹約令を受けた菰野藩士龍崎守道は、当日の様子を日記(「龍崎守道日記」)に「当酉年より来ル卯年迄七ケ年の間は倹約仰せ出され、御引米これを仰せ付けられ」と書き記している。
この「引米」とは、言わば「給料カット」で、「物成請払帳」で確認してみた。すると、藩士階層の中で政務を統括する「年寄」であった日比茂右衛門は、当時200石取りであったが、倹約によって「四分壱厘引(本給の41%カット)」であったため、本来なら200俵もらえるところが、この年の給米は118俵しかもらえなかった。そのほか、100石取りは30〜36%、80石取り27%(江戸在勤は17%)カットであった。この引米はカットの割合こそ異なるが、下級武士まで適用された。例えば、4石取りに相当する扶持米をもらっていた早川道之丞の場合、本来の13%をカットされて8俵余であった。
そして、龍崎守道は、倹約中であったこともあり、翌38年の正月は「御倹約中に付、御祝御膳等一切これなし」と祝いを遠慮している。
このように、天保飢饉時には村落や家中、それぞれ対応を行ったが、菰野藩の場合には既に文化期(1804〜17年)に財政再建の建議書が作成されており、天保の飢饉時点でかなりの負債があった。そこに飢饉で大きな痛手を被ったわけで、結局、その財政状況は江戸時代のうちには回復しなかったようである。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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